『実語教』解説 その5 (最終)


『実語教』解説(5/最終)
(4)からの続きです。
「八正道は広しといえども、十悪の人は往かず。
 無為の都は楽しむといえども、放逸の輩(ともがら)は遊ばず。」
※「八正道は広しといえども、十悪の人は往かず。」は、八つの正しい教えに沿った道は広大だけれど、十の悪い心を持った人は、恐れて歩こうとしない。という意味。
※「八正道(はっしょうどう)」
・正しく見ること
・正しく思うこと
・正しく話すこと
・正しく振る舞うこと
・正しく働くこと
・正しく努力すること
・正しく心を集中すること
・正しく気づくこと

※「十悪(じゅうあく)」

・殺す
・盗む
・みだらな行為をする
・虚飾[いつわり]の言葉を使う
・二枚舌を使う
・悪口を言う
・むさぼる[欲張る]
・憎しみの感情を持つ
・道理がわからずに愚かな考えを持つ
※「無為の都は楽しむといえども、放逸の輩(ともがら)は遊ばず。」は、無理をせず自然に生きることは楽しいのに、だらしがなくて欲深い人はその楽しみを味わおうとしない。という意味。
※「無為」–無理に何かしようとは思わず、自然にしていること

「老いたるを敬うは、父母の如し。
 幼(いとけなき)を愛するは子弟の如し。
 我他人を敬えば、他人また我を敬う。
 己(おのれ)人の親を敬えば、人また己が親を敬う。
 己が身を達せんと欲する者は、
 先ず他人を達せしめよ。
 他人の愁(うれ)いを見ては、即ち自ら共に患(うれ)うべし。
 他人の喜びを聞いては、即ち自ら共に悦ぶべし。
 善を見ては速やかに行え。
 悪を見てはたちまち避けよ。
 善を修する者は福を蒙(こうむ)る。
たとえば響きの音に応ずるが如し。
 悪を好む者は禍(わざわい)を招く。
あたかも身に影の随うが如し。
 富むといえども貧しきを忘るる事なかれ。
 貴しといえども賤(いや)しきを忘るることなかれ。」

この部分は、イメージ通りにとって大丈夫と思います。
「あるいは始めは富みて終わり貧しく。
あるいは先に貴くして後(のち)に賤し。
それ習い難く忘れ易きは、音声(おんじょう)の浮才(ふさい)。
また学び易く忘れ難きは、書筆の博芸。」

※「あるいは」は、「ある人は」と読み替えるといいそうです。
※「あるいは始めは富みて終わり貧しく。あるいは先に貴くして後(のち)に賤し。」は、学ぶことを忘れると、貧乏になったり、下品になったりする、という意味。
※「それ習い難く忘れ易きは、音声(おんじょう)の浮才(ふさい)。」は、音楽やダンスなどは習うのが難しくて忘れやすいもの。という意味。
※「学び易く忘れ難きは、書筆の博芸。」は、読み書きは、学ぶのが簡単で忘れにくいものだ。という意味。
「ただし食有れば法在り。また身在れば命有り。
なお農業を忘れず。必ず学文(がくもん)を廃することなかれ。
かるが故に末代の学者、先ずこの書を案ずべし。
これ学問の始め、身終わるまで忘失することなかれ。」

※「ただし食有れば法在り。また身在れば命有り。」は、ただ食べ物があれば、そこに智慧の教えがあり、体があれば、魂というものがある。という意味。
※「なお農業を忘れず。必ず学文(がくもん)を廃することなかれ。」は、体を養う農業を忘れてはならない。命を養う学問をやめてはならない。という意味。

以上です。

江戸時代、寺子屋で子供達が習っていた『実語教』
平安時代の終わりにできて、以後明治の初めまで使われていたという『実語教』 テンポよく、人の道を説いていて、いい感じです。 ...

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