バルチック艦隊に勝てたのは、小栗上野介のおかげだってヨ![#24]


群馬の東善寺というお寺に行ったことがあるんだ。そこでは、小栗上野介という幕末に活躍したお侍さんの業績を紹介する写真やパネル、模型などが展示されていたんだ。見たこともない写真が沢山あって、びっくりしたのを覚えている。教科書になんて、載っていなかったよなぁ。。刀を下げたお侍さんたちがアメリカに行って、大歓迎を受けたなんて話、聞いたことなかったなぁ、、なんでだろう、、、と不思議に思ったことを覚えてる。
2~3日前、部屋の片づけをしたら、その時のパンフレットが出てきたんだ。改めて調べてみたら、へぇ~~!!がいっぱい詰まってた。今日は、そのお話。

小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)は、司馬遼太郎が、「明治という国家」という本の中で、「明治の父」と呼んだほどの人なんだ。
小栗上野介は、どんなことをしたのかな?

ものすごく大雑把に言うと、
江戸末期のペリー来航の7年後に、遣米使節団の中心人物としてアメリカに行って、日米通商条約の批准書交換を行ない、アフリカを経由して、つまり、世界一周をして日本に帰ってきて、横須賀造船所建設をはじめ、日本の近代工業の基礎をたくさん作ったすごい人なんだ。

小栗上野介ら「万延元年遣米使節団」は、ペリー来航の7年後1860年2月、日米通商条約批准書交換のために、アメリカ軍艦ポーハタン号で横浜を出発。ハワイを経由し太平洋を横断、サンフランシスコに到着しパナマ経由でワシントンD.C.に到着し、大役を果たすんだ。当時のアメリカは、南北戦争直前だったんだけど、ちょんまげ姿の武士たちは、熱烈な歓迎を受けたんだ。
この時、護衛として行ったのが咸臨丸。咸臨丸は、勝海舟が載っていたことでも知られているよね。咸臨丸は、あくまで護衛で、サンフランシスコ往復だけだったそうだよ。
大役を果たした使節団は、ボルチモア、フィラデルフィアと最終地のニューヨークを訪問、アフリカを経由して、9か月後の11月9日品川に帰ってきたんだ。

<参考>
在NY日本国総領事館 http://www.ny.us.emb-japan.go.jp/150th/html/kanrin5.htm
よみたいむ http://www.yomitime.com/061810/0201.html
この時、ワシントンで、小栗上野介たちは、「ワシントン海軍造船所」を見学。これからの日本にとって必要なのは、製鉄技術、造船技術と海軍だ、という想いを強くしたんだ。
小栗上野介は、帰国後、製鉄所の建設を強く推し進め、慶応元年(1865年)には横須賀製鉄所の建設が開始。その後幕府が倒れ明治政府となったんだけど、造船所建設は続けられ、明治4年(1871年)に完成したんだ。
幕府の役人だった小栗上野介は、江戸城無血開城の後、徹底抗戦を主張したんだけど、意見を将軍に受け入れてもらえずに役を解かれ、最後には、新政府軍に捕らえられ斬首されてしまったんだ。
切腹でもなく、申し開きの場を与えられることもなく、首を切り落とされたのは、小栗上野介だけだったそうなんだ。
どうしてか、というと、後に大隈重信が、こういったんだって。
小栗は謀殺される運命にあった。なぜなら明治政府の近代化政策は、そっくり小栗のそれを模倣したものだったから」と。明治政府は“全て新政府が成した業績”とするため小栗の功績を抹殺する必要があったんだ。

参考:http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20080527

小栗上野介は、「幕府が倒れ、新しい政権ができたとしても、この横須賀製鉄所は土蔵付きの売り家として渡すくらい価値あるものとなり、名誉なことだ」と語ったそうなんだ。日本の将来を見据えて、公の気持ちで行動した人なんだね。

横須賀製鉄所は、フランスの支援・技術協力を受けて、戊辰戦争という幕府と西軍との闘いという状況の中でも建設は続けられ、慶応4年(1868年)4月1日に、新政府に引き継がれたんだ。そして、この5日後の4月6日に、小栗上野介が首をはねられたんだ。大隈重信がいうまでもなく、口封じ、手柄横取り、のためだったっていうのは、想像に難くないよね。小栗上野介42歳。

横須賀製鉄所は、造船だけでなく、
・観音崎灯台
・富岡製紙工場の基本設計や機械製作
・愛知紡績所のタービン水車
等、近代工業の発展と輸出産業の育成をけん引したんだ(ひっぱったんだよ。

この写真は、1871年に完成した横須賀海軍施設1号ドック
その後、明治36年(1903年)に横須賀海軍工廠(こうしょう)になって、戦艦「比叡」、空母「飛龍」「信濃」なんかがつくられたんだ。今でも、このドッグは、米軍基地で実際に使われているんだ。100年以上も前の造船施設が、だよ!すごくない?

日露戦争でロシアのバルチック艦隊を破った東郷平八郎海軍元帥は、明治45年、自宅に小栗の遺族を招き、日本海海戦について「軍事上の勝因の第一として、小栗殿が横須賀造船所を建設しておいてくれた事が、どれ程役にたったか計り知れません」と述べて率直に感謝の気持ちを表し、後日、小栗家に縦横2幅の自分の書を進呈したそうなんだ。

横須賀製鉄所の他にも、小栗上野介は、
・鉄道建設(江戸~横浜間)
・国立銀行
・電信・郵便制度
・郡県制度の創設
・商工会議所や株式会社等の経営手法
なども提案していたんだ。
これらは、明治以降、新政府の手え次々に実現されていったんだけど、小栗が考えていたことだったんだね。

こういう偉大な人の話を、学校で教わった記憶がない、のは、僕だけなんだろうか。。
こんなに、かっこよくて、腹が座って、経済に強く、未来を見据えて国家戦略をたてることのできた武士の話は、もっともっと、みんなに知ってもらいたいと思うよ。

じゃあ、またね。(動画書き起こし)