『啓発録』の序文に見る 橋本左内(はしもとさない)


ことふみHPの人気記事のNo1は、橋本左内について簡単にご紹介したページです。

久しぶりにのぞいてみたら、さら~っと紹介しているだけで、ちょっと内容が薄すぎでした☺

ここでは、左内の人となりが伺える、『啓発録』の序文を中心にまとめてみます。

左内の学問

橋本左内(はしもとさない)は、福井藩の儒学者 吉田東篁(よしだとうこう)に学び、その後江戸に出て、安積艮斎(あさかごんさい)の弟子である佐藤一斎(さとういっさい)に学んでいます。

左内と同じ年輩で若いころから一緒に学んできた矢嶋あきら(白辺に泉と書く)が、『啓発録』の序文を書いていますが、ここには矢嶋の見た左内の姿が描かれています。

序文の最初に書かれているのは、まだ15~16歳の頃の様子で、

「皆で激論を戦わし、悲憤慷慨(ひふんこうがい)して、時弊を憂うることがあったが、左内は常にうつむいて行儀よく座り、自分の学才を表に出さず、黙って聞いていた」

と言っています。

次は、大阪の適塾(てきじゅく)の緒方洪庵(おがたこうあん)に蘭学や蘭方医学(らんぽういがく)を学んでいましたが、父の病気のため19歳で帰京した時の様子が述べられています。

「その態度は落ち着いていて考え深く、何事にも精しく(くわしく)正確な学識を身に着けており、その学識の根拠は明確であり、この大阪進学の間に学問が非常な進歩を遂げていたことに驚かされた」

と言っています。

実際に、左内は、暇を見ては乞食の診療をしたり、図書の購入で親しくなった書店の妻君の治療をしたりと、知識の習得だけでなく実学に努めています。福井に帰ってからは、なんと、師匠である吉田東篁(よしだとうこう)の奥様の乳がんの手術もしています。

また、このころ(16~19歳)後に福井藩の学制や進行に大きな影響を与えた熊本の横井小桶とも知り合い教えを受けています。

第三は、3年後20歳で江戸に遊学したときの様子。

江戸では、和漢洋の大家 杉田成卿(すぎたせいけい)に、蘭学・医学・兵学を学び、漢学の大家 塩谷宕陰(しおやこういん)に漢学を学んでいます。

この時の矢嶋あきらの感想は

「左内の学問は一段と進み、それも実用に役立つことを主眼としていて、経世済民の才識は実際に運用できるほどで、それは江戸の有名人も褒めたたえるほどであった」

というものです。

序文の最後に矢嶋は、『啓発録』の序文を頼まれて、本文を見たときの驚きを記し、左内の真髄に触れています。

その全文が忠孝節義の精神でうずまっており、激しく奮い立つような気迫が迫ってくるようで、初めて左内の進学の速さの原因が分かった。あの頃自分たちは気概が盛り上がり、激論することに快感を覚え、発散することで終わっていたのに、左内はそうした気概を言葉や表情に出さず、長い間じっと身体の中に蓄積しておいて、一気に学問素養の上に発揮させたことを理解できた。

と言っています。

私たちが学問をするときの姿勢として参考にしたいものですね。

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参考)

『福島新樹会創立25周年記念 渡邉五郎三郎代表幹事講義要録集 私達の「人づくり」「國づくり」』

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