かくすれば かくなるものと 知りながら、、 (吉田松陰)


かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂

吉田松陰

こうすればこのようになるということは知っていたが、

正しいと信じることのためには、死をも恐れずにやり遂げようとするのが

日本人のまことの心というものだ。

この和歌は、もう何年も私の机の上のボードにメモ書きしたものを貼っている、

心打たれる和歌の一つです。

吉田松陰(よしだしょういん)という名前は、とてもとても有名で、

知らない人はいないといっても言い過ぎではないと思います。

彼は、橋本左内の4つ年上、同時代を生き、安政の大獄で刑死。

その時30歳。

吉田松陰の門下生には、久坂玄瑞(くさかげんすい)、高杉晋作(たかすぎしんさく)、伊藤博文(いとうひろぶみ)、木戸孝允(きどたかよし)等、明治維新の先駆けとなったり、維新政府の要職に就いた人が多くいましたので、もっと年を取っているのかな、と漠然と思ってしまいがちですけど、彼の人生は30年だったんです。

それだけでも、すごいなぁ、、と思います。

吉田松陰は、6歳で吉田家の当主となり、

10歳で、藩主毛利敬親(もうりたかちか)の御前で講義を行う親試(しんし)になって、山鹿素行(やまがそこう)の『武教全書』を講義したそうです。

※親試 → 藩主の御前で講義を担当する人

黒船が現れて、幕府がおたおたし、どう国を守るか十分な対策をとれないでいるのを目にした松陰は、「これでは、我が神州(しんしゅう)は夷狄(いてき)の植民地にされてしまう。自分は何をすべきか。。」と考え、海外へ出て西洋の事を学ぼうと決心するのですね。

※神州 → 日本のこと

※夷狄 → 外国(未開の国や野蛮人のこと)

そして、翌年安政元年(1854年)ペリーが浦賀に現れた時に、弟子の金子重輔(かねおしげのすけ)と、小舟をくり出して下田沖に錨を下ろしていたペリーの軍艦にたどり着いて乗り込み、自分たちをアメリカに連れて行ってほしいと、嘆願します。

ペリーは、松陰の意気を感じるのですが、アメリカに連れていくことは拒否。

松陰の計画は失敗に終わります。

当時は、鎖国をしていて、海外に出るということは、死罪になっても仕方がないほどの重罪でした。

自首をした松陰たちは、下田から江戸の牢獄に送られるのですが、途中、赤穂浪士(あこうろうし)の墓がある泉岳寺(せんがくじ)の前を通った時、死を覚悟して主君の仇を打った赤穂浪士に自分の姿を重ね合わせたのでしょう。

その時に詠まれた歌が、この歌です。


今日よりは幼ごころを打ち捨てて、、 吉田松陰も詠んだ『啓発録』の心
今日よりは おさなごころを うちすてて 人となりにし 道を踏めかし 吉田松陰 吉田松陰が、若い知人の元服にあたり贈った歌です...
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