[二十七番歌]みかの原 わきて流る るいづみ川、、にみる天平文化への想い


みかのはら わきて流るる いづみ川
           いつ見きとてか 恋しかるらむ

中納言兼輔(ちゅうなごんかねすけ)877-933

(現代語訳)

奈良の木津川に水が湧き出し、水流がわかれたいつみ川。その川を私はいつ見たというのだろうか。見たこともないのに、どうしてこんなに恋しいのだろう。

という意味。

一度もあったこともない女性を恋焦がれているのか、あったことはある女性に会いたいという恋心なのか、いづれにせよ、恋歌という解説をする本が多いようです。

でも、なんだか、この歌、奥が深そうです。

「みかの原」というのは、奈良時代天平年間、聖武天皇(しょうむてんのう)の御代に、恭仁京(くにきょう)という都がみかの原に置かれていました。

そこから、「わきて流れ」た。

「わきて」=「分かれて」「沸きて」の掛詞

歌を詠んでいるのは、中納言という役職をもった歌人ですので、何らかの政治的な意味が込められていると考えられます。

そうすると、

「みかの原わきて流るるいづみ川」というのは、聖武天皇(しょうむてんのう)の御代に恭仁京(くにきょう)で生まれた新しい政治の動き、と解釈することもできます。

恭仁京が奈良に置かれたのは、天平13年(741年)。

藤原兼輔(ふじわらのかねすけ)が中納言になったのが、延長5年(927年)。

約200年の開きがあります。

つまり、中納言兼輔は、聖武天皇にお会いしたこともなければ恭仁京を見たこともないということですね。200年前の時代を、どうしようもなく心がかき乱されるように恋焦がれている、という深い意味もあるのではないか、という解説に、私は心を動かされます。

聖武天皇の御代は、いわゆる「天平文化」の時代。

仏教が民間信仰となって広がるに伴って、建築・絵画・彫刻・文学等インドやベトナムなどから入ってきた文化と相まって国際色豊かな芸術・文化が花開きました。

また、

天変地異が相次いだ時代でもあります。

「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」などができて、土地を私有することができるようになった時代

奈良の大仏建立もこの時代。(聖武天皇が詔勅を発したとか。。)

日本史の中でもひときわ光彩を放った時代です。

その文化に恋焦がれているのだ、という、そんな壮大な意味を奥に込めている歌なのですって。

ちなみに、

藤原兼輔は、紫式部のひいおじいちゃん。三十六歌仙の一人です。

★★★

百人一首は、恋の歌だよ~

そんな風に漠然と思っている人は多いと思います。

平安時代って、恋の歌を詠っていられたのんきな時代だったんだよね~

でも、ホントにそれだけかなぁ??

そんな疑問を抱いたら、

調べてみるのも面白いですね。

今回のお話は、『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』という本を参考にしたのですが、この一首をとってみても、あれ~、天平文化って、確かに学校で暗記したよね。でも、当時はどんな社会だったのかなぁ。。この本に書かれてあることの根拠はどこにあるのかなぁ、、と、もっと調べてみたい気持ちが、ふつふつと沸いてきます。

百人一首って、実は、すご~~~く奥の深ぁ~い文化なんじゃないかな?

そんな風にも思ったりします。

せっかく百人一首大会を開くのですから、それぞれの歌が詠まれた時代背景や世相、隠された真意等について考えてみまし&
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