[海軍さんの歴史教科書]11. 大正時代と世界の趨勢 


国の始まりから、順を追って打ち込んでいったほうが、伝わりやすいのですが、明治時代辺りからの歴史は、私たちの教科書からすっぽり落ちているか、歪曲されて記載されているか、どこまで正しいのかな、という感じをどうしても受けてしまいます。

昔の人は、この時代をどう習っていたのか、知ってみるのもいいと思います。

ということで、ちょっと飛びますが、中華民国の成立の頃の記述から、一緒に読んでいきましょう。

参)教科書目次

11.大正時代と世界の趨勢

(1)中華民国の成立

清朝の衰運

我が江戸時代の初期、明に代わって支那を統一した満州族の清は、一時その勢いがすこぶる盛んであったが、やがて日清戦争に敗北を喫したころから、外は欧米列強の貪婪(どんあん)飽くなき侵略を蒙(こうむ)り、内には滅満興漢(めつまんこうかん)の運動が起こって、国運は漸(ようや)く衰亡に傾き始めた。滅満興漢の運動はすでに早くアヘン戦争の直後、長髪賊の乱となって現れたが、やがてこの運は革命運動となって清を滅亡せしめる大きな原因となったのである。

清朝の反省と改革

この清がさすがに自国の内憂外患、ことに列強の侵略の魔手にさらされた自己の国際的地位を反省して国力の回復に乗り出したのは、強大のロシアを隣邦日本が大いに破った日露戦争以来のことであった。即ち清は日本の明治維新以降における飛躍的発展は、一つに立憲政治に基づくものとして憲政実現の希望を抱き始め、当時清の政治上の実験を握っていた西太后(せいたいごう)も、ついにこれに動かされて立憲政体を採用することに決したが、光緒(こうしょ)三十四年(明治41年)に発布せられた憲法大綱は、我が国の憲法を直訳したものに過ぎなかった。その後まもなく光緒帝・西太后が相次いで没し、帝の甥宣統帝(せんとうてい/現満州国皇帝)が僅か3歳で即位したが、その父醇親王(じゅんしんのう)は摂政となって益々立憲の準備を進め、宜統三年(明治44年)には新たに内閣制度を設けた。

革命の機運

しかし、このような施設も清朝に対する漢人の信望を繋(つな)ぐことはできず、外国に対抗するため民族の独立と統一を願う思想は年とともに漢人の間に高まり、殊に新知識を得て帰国した留学生らの多くは自国の政治的欠陥に不満を感じ、革命の機運が次第に熟してきた。この時清朝が、外国からの借款によって鉄道幹線を固有にしようとしたことは、民間の利益を無視したものとして、いよいよ国民の反感をつのり、憤激した国民は各地に騒擾(そうじょう)を起こした。

革命軍の興起

革命党が滅満興漢の旗を掲げて武昌(ぶしょう)に起こったのは、このときのことである。革命党はすでに明治25年、孫文(そんぶん)が興中會(こうちゅうかい)を組織したのに端を発し、清朝の圧迫のもとに絶えず革命運動を続けていたが、この国内の騒擾に乗じて軍隊と結んでことを挙げるに及び、諸省は多くこれに応じて独立を宣した。ここにおいて革命軍は遂に南京を陥れてここに臨時政府を建て、くにを中華民国と号し、孫文を推して臨時大統領とした。

清朝の滅亡

清朝は大いに狼狽し袁世凱を用いてこれを討伐せしめたが、袁世凱は革命軍と妥協してむしろ清帝の退位をすすめたので、ついに宣統帝は退位せられ、民国元年(明治45年)、袁世凱は孫文に代わって北京において臨時大統領に就任し、ここに清は滅んで東西における最初の共和国が建てられたのである。

国内の紊乱(ぶんらん)

袁世凱は就任後、世情の不安に乗じて専制政治を行うとし、孫文を中心とする国民党は討袁軍(とうえんぐん)を起こそうとしたが失敗に終わって孫文は我が国に亡命した。ここにおいて袁世凱は国会において正式大統領に選ばれ、列国の承認を受けて民国二年(大正2年)、ここに正式の共和制府が成立したが、袁世凱はやがて帝政を施行して自ら皇帝の位につこうとし、国内の反対と列国の帝政施行延期の勧告にあって失意のうちに死し、これから後、民国の政界は混乱に陥って紛糾は停止することなく、国内は紊乱(びんらん)の極に達した。このころ発したのが第一次欧州大戦であった。

国民政府の統一

その後支那においては北京政府と、孫文が我が国に亡命中新たに結成した中国国民党によって組織せられた廣東政府との、南北両政府の対立は続けられたが、やがて孫文は聯ソ容共の政策をとってにわかに勢力を得た。而してその死後 廣東政府は国民政府と改称し、蒋介石(しょうかいせき)を国民革命軍総司令官に任じて北伐(ほくばつ)を開始したが、民国十七年(昭和3年)、北京政府の巨頭張作霖(ちょうさくりん)の爆死によってこれに成功し、その子張学良(ちょうがくりょう)が国民政府に服従するに及んで 南北は初めて合一し、中華民国は漸く国民政府のもとに統一せられることとなった。

(2)第一次欧州大戦と我が国

第一次欧州大戦の勃発

明治37,8年戦役後10年にして、いわゆるバルカン問題の紛糾に端を発し、独・英の争覇(そうは)を中心にヨーロッパ全土が忽(たちま)ちこれに巻き込まれて、ここに一大戦乱の勃発をみた。即ち第一次欧州大戦である。

最後通牒の交付

然(しか)るに ドイツは支那及び太平洋に領土を有し、その海軍の活動が東亜の平和を攪乱(かくらん)しようとする形勢にあったので、我が国は日英同盟の好(よしみ)を重んじ 東亜の平和を確保するため、ドイツに最後通牒を発して 日本近海及び支那方面からドイツ軍艦及びあらゆる種類の武装船舶の退去を求め、且つ支那に還付する目的をもって膠州湾(こうしゅうわん)租借地全部を日本官憲に引き渡すべきことを勧告した。

日独の開戦

然(しか)るにドイツはこれに応ぜず、ここにおいて大正3年8月23日、ついに宣戦の大詔(たいしょう)が煥発(かんぱつ)せられて、我が陸海部隊は青島(ちんたお)要塞を攻撃し、十一月には早くもこれを陥(おとしい)れた。この時海軍飛行機二機がこの戦闘に参加し 偵察及び爆撃を行ったが、これが我が国において飛行機を実戦に用した最初であった。

(註)

※大詔(たいしょう)– みことのり、天皇が国民に告げる言葉

※渙発(たいしょうかんぱつ)– 輝くように現れ出ること。大詔渙発。才気煥発

第三次対欧米反撃戦としての日独戦争

また我が戦隊の一部は遠く南洋に出動してマーシャル・カロリン・マリヤナ・パラオ・ヤッブなどの独領諸島を占領した。これらは要するに ドイツが東亜に築いた支那及び太平洋における侵略の証拠を一挙に葬(ほうむ)って、東亜永遠の平和を確立するための我が武力の発動であった。このことは 日独戦争も、また我が国の欧米に対する第三次反撃戦であることを示している。

日支条約の締結

ところが我が国が青島を占領するや、支那は不遜にもわが軍の退去を要求し、その後日支間には種々の紛議が絶えなかった。しかもその上支那は革命後の動乱が容易に収まらず、列強はこれに乗じて権益を握り、世界大戦が一たび定まった後は 東亜の運命が如何に展開するかは測りがたいものがあったから、大正4年、我が国は支那と交渉して日支条約を結び、満州における日本の権益を確保し、併せてドイツから収めた膠州湾租借地の処分についても種々協議するところがあった。

条約締結の意義

これは実に大戦後支那を中心として当然起こるべき複雑な問題をあらかじめ処理し、満州に特殊の地歩を固めて 列強の東亜に対する野心を未然に防ぎ、日支の共存共栄と東亜平和の確保を目的としたものであった。されば この日支条約こそは その後欧米列強の種々の策動と干渉にもかかわらず、欧米勢力が支那から駆逐せられる端緒となるべきものであった。

帝政ロシアの崩壊

我が国の山東占領に次いでロシアに革命が勃発した。而(しか)して この革命により帝政ロシアが崩壊したことは、ドイツの勢力を支那及び太平洋諸島から駆逐し得たことよりも 我が国にとっては有利であった。かくて東亜における国際関係はここに一変し、ヨーロッパ諸国が未曾有の戦乱に頗(すこぶ)る難渋(なんじゅう)と混乱を極めつつある時、我が国はアメリカ合衆国とともに一時とはいえ 極めて有利な立場に置かれたのである。

日支条約(抄出)

山東省に関する条約

第一条 支那国政府はドイツ国政府が山東省に関し 条約その他により支那国に対して有する一切の権利利益讓與(じょうよ)等の処分につき、日本国政府がドイツ国政府と協定する一切の事項を承認すべきことを約す。

南満州及び東部内蒙古に関する条約

第一条 両締約国は 旅順大連の租借期限並びに南満州鉄道及び奉安鉄道に関する機嫌を いづれも99箇年に延長すべきことを約す。

第三条 日本国臣民は 南満州において自由に居住往来し、各種の商工業その他の業務に従事することを得。

 (大正4年5月7日)

(3)支那・太平洋をめぐる大戦後の国際関係

世界情勢の急変

大正3年6月、欧州の一角に勃発してから世界全土を戦乱の渦中に投じて世界大戦にまで進展した第一次欧州大戦は、前後5年の日子(にっし)を費やして、大正7年11月、ドイツの屈伏により ついにその局を結んだが、この大戦の結果 世界各国の勢力分野は俄然一変した。即ち大戦後 世界の覇権は米英の手に握られることとなり、これから世界の歴史はアングロサクソンの横暴時代に入ったのである。就中アメリカが世界制覇の野望を満たすため 露骨にその爪牙(そうが)研ぎ始めたのも、実にこの大戦以来のことであった。

国際連盟とアメリカ

即ちアメリカは大戦の結果得た比類ない経済的富裕を利して次第に横暴を極めはじめ、まずその動向は国際連盟の問題になって現れた。国際連盟は大戦後ヴェルサイユ条約締結と同時に、世界平和の理想実現の名のもとにアメリカ大統領ウイルソンの提唱によって結成せられたものであった。しかしそれが実は、新興国と戦敗国の台頭を抑え、不正不義によりかつて自己の得た領土と利権を永久に守ろうとする陰謀に基づくものであったことは、理想実現の一端として我が国が提唱した人権平等主義を葬り去ったことからしても明らかであった。しかもアメリカは、自己の唱えたこの国際連盟への加入を拒絶するという傍若無人(ぼうじゃくむじん)をあえてしたのである。これが横暴でなくて何であろう。

国際関係の悪化

即ち第一次欧州大戦後、世界競争の舞台は大西洋から太平洋に移った。而して列強の目標は専ら支那に向けられた。例えばイギリスは大戦後着々として失われた支那における商権の回復に力を尽くし、革命後共産主義国家として更生したソ連は、共産主義の宣伝によって再び支那への侵入を試み始めた。就中アメリカが支那を征服し、太平洋を支配しようとしていよいよ野望達成に狂奔し始めたのは、アメリカの世界制覇の野心にかんがみて当然想像せられたところであるが、ここに支那と太平洋をめぐって日米関係の悪化・対立の状態がいよいよ明らかになり始めてきたのである。

満州共同管理の陰謀

日米関係の対立状態は、先に日露戦争の頃から始まり、既に日露講和のポーツマス会議中においてさえ、アメリカの鉄道業者ハリマンが 満州における鉄道その他の企業を、日・米・英三国の共同管理に移そうとする陰謀を企て、時の外相 小村寿太郎(こむらじゅたろう)の断固たる反対にあって実現をみなかったという事件が起こった。

満鉄中立案の提議

また明治42年、アメリカ国務卿ノックスは満州鉄道の中立案を定義して 露骨な野心を示した。これも遂には失敗に終わったが、これから両国民の感情は悪化の一路を辿るばかりであった。イギリスが明治44年、日英同盟を改訂したのも、かかる日米の対立関係から将来日米の衝突が起こった時、日本と協同してアメリカにあたるのを避けるための巧妙なイギリスの策略からであった。

日米関係の悪化

かくて日米両国民の感情はますます悪化し、殊にアメリカには黄禍論・恐日病が盛んに起こって日米戦争不可避論さえ唱えられ、アメリカ各地には排日運動が頻発するようにさえなった。この間 我が国は明治41年、日米覚書(おぼえがき)の交換を行って両国の誤解を解いたが、その後もアメリカの太平洋及び支那への進出の機運はいよいよ盛となっていった。この時にあたって 第一次欧州大戦が勃発し、その間、日本の膠州湾占領と日支条約締結の問題が起こったのである。

支那における排日運動の勃発

両者はともにアメリカが満州・支那にその野心を伸ばすための大きな脅威となるものであった。さればアメリカは我が国にあらゆる抗議と干渉をあえてし、そのため日米関係はいよいよ険悪となっていった。ところが 大正8年、ヴェルサイユ講和会議において支那はウィルソンの後援により、日支条約破棄と山東省占領地区直接還付の二大要件を提出した。しかも容れられないと見るや、支那は日支条約調印の5月7日を國恥(こくち)記念日と定めて排日の口実とし、北京・上海を中心として排日の暴動を起こした。

日支関係の紛糾とアメリカ

爾来 日支関係の前途は暗雲をもって覆(おお)われ、幾多の不祥事件が頻発した。これは明らかに我が国の真意を理解しない支那が、我が国の没落を策するアメリカの手先に踊って、自ら東亜平和を攪乱(かくらん)し始めたものに外ならなかった。第一次欧州大戦後に起こった支那・太平洋をめぐる国際問題は、いづれもアメリカの世界制覇の野望と、その手先に踊る支那の妄動とによって巻き起こされていったのである。

(4)軍縮会議とアメリカの日本圧迫

石井ランシング協定の締結

日露戦争前後に相次いで結ばれた日英同盟・日佛協約、あるいは日露協定により、支那における我が国の特殊権益は公然と外交文書にかかげられて、英・佛(仏)・露等の列強はいづれもこれを承認していたが、アメリカだけは未だにこれを長く承認しなかった。アメリカが遂にこれを承認したのは大正6年、時の前外相 石井菊次郎がアメリカの参戦祝賀のために特派大使として渡米した時、いわゆる石井・ランシング協定が結ばれてからのことである。しかし 支那における我が国の特殊利権を認めることは、太平洋制覇を目的とするアメリカの対支政策と一致するものではなかった。ここにおいてこれを破棄して日本を圧迫しようとし,露骨に太平洋制覇に乗り出したのが実にワシントン会議であった。

ワシントン会議開催の名目

ワシントン会議は アメリカ大統領ハーディングの提唱により、日・英・佛・伊などがこれに応じて開かれたが、その会議の目的とするところは、軍備競争に消費せられる巨額の支出は国民負担の大部分を占めて各国国民の繁栄を阻害するものであり、またその激烈な競争は世界平和維持の保障となるよりはむしろ不断の脅威となるものであるから、列強において軍備制限を実行し、国民の負担軽減と世界平和の確立を実現しようというにあった。また 提唱のうちには 列強の利害に多大の関係を有する太平洋及び東亜の問題に関しても、この方面に利害関係を有する国家及び国民の進行を増進すべき対策を講じようという目的も含まれていた。

アメリカの真意

このようにワシントン会議の開催は、その表面の面目においては世界平和・正義人道というような極めて祝福すべき目的を持つようには見えているが、しかしアメリカの真意がその不逞(ふてい)な太平洋制覇の野望にあることは勿論であった。特に支那を中心とする太平洋制覇の有力な競争相手である我が国を、戦争ならざる戦争によって蹴落とそうとする陰謀がひそめられていたことは、会議の結果に徴(ちょう)して明白な事実であった。

決議の内容

会議は大正10年11月から翌11年2月まで続けられたが、審議の結果定められたところは

(1)海軍軍備制限条約

まず海軍軍備制限問題については、日・米・英の主力艦を、保有量・単艦トン数・備砲の最大限度などについて制限し、その保有量トン数比率を3・5・5(仏伊は1.75)とし、爾後10年間、新主力艦の建造を中止することが定められた。ちなみに我が国は対米英6割の保有量では国防上の万全を期しがたいとして極力これに反対し、最小限度7割を要求したが容(い)れられなかったのである。また 航空母艦についても同様のことが定められた。次いで太平洋沿岸及び諸島の軍事施設に関してもこれを10か年間現状維持にとどめることが協約せられたが、これは我が国を窮地に陥らしめようとする米英の策略によるものであった。

(2)四ケ国条約

次に重要なものは四ケ国条約である。これは日・米・英・仏の4ヵ国が協約を結んで、太平洋上における協約国相互の領土保全を約したものであるが、その本質は実は日英同盟の廃棄にあった。即ち日英同盟の存続を好まぬアメリカの策謀によって、この条約の締結により日英同盟は不必要なものとして廃棄せられることとなったのである。

(3)九ヶ国条約

本会議において決議せられた幾多の支那関係事項中、最も重要なものは九ヶ国条約である。これは日・米・英・仏・伊・蘭・白・葡・支の9ヵ国が支那全権の主張に基づき、アメリカ全権ルートの提案した支那の独立尊重・領土保全・門戸開放(もんこかいほう)・機会均等という4原則に従って各国の対支行為を規定・協約したものであった。而してこの条約も実は平和確立の美名のもとに支那に対する我が国の特殊関係を否定し、支那を侵略の目標とする欧米諸国の従来の態度を現状維持しようとするものに外ならなかった。されば この条約の成立とともに、我が国はドイツから継承した青島及び山東省における権益を支那に還付することを余儀なくせられてしまったのである。

屈辱的条約の強要

かくてワシントン会議の結果、アメリカの巧妙な外交手段によって我が国は窮地に陥れられたのである。かかる結果を招いた原因はまた当時における我が国内事情のうちにもあった。即ち当時極度に平和・民主・自由を求める世界的空気に影響された我が国が、国防を多少とも軽んじたためかかる屈辱的条約を強要せられたのであって、その結果 日清戦争以来、欧米の東亜侵略を抑えてまさに東亜の盟主たろうとしながら、このワシントン条約という戦争ならざる戦争に禍(わざわい)せられて、アメリカの世界制覇の野望をますます大ならしめる結果をなったのは、誠に遺憾の極みであった。

石井ランシング協定の廃棄

果してワシントン会議後、アメリカの我が国に対する圧迫はますます強くなっていった。大詔12年、アメリカの強要によって石井・ランシング協定が廃棄せられたが、これはワシントン会議の当然の結果であった。これから支那に対する我が一切の特殊関係は、国際条約の上から完全に消え去った。而して支那の門戸開放、経済上の機会均等というアメリカの対支政策が、太平洋制覇と日本圧迫の野望遂行の武器として、強く世界に強要せられ始めたのである。

排日移民法案の可決

次いでアメリカの横暴は大正13年における排日移民法案となって現れた。アメリカにおける排日運動は既に久しいものがあったが、この法案の可決こそは実に国家の権力を以て、排日の目的を達成しようとするものであった。ここにおいて両国民の感情はますます険悪を加え、日米戦争の切迫が広く一般にも叫ばれるようになった。

支那の排日侮日抗日の起因

かかるアメリカの日本圧迫をみて、支那はいよいよアメリカの力を借りて一挙に我が国の満州及び支那における既得権益を回収しようとし、排日・侮日・抗日の限りを尽くし始めた。このような支那の妄動のため、これから後我が隠忍親善の対支外交は悉く阻害せられ、やがて満州事変・支那事変の勃発をみるようになったのである。

ジュネーブ会議と不戦条約

ワシントン条約では、主力艦の制限は行われたが、補助艦に関する協定は遂げられなかったので、爾来各国は激烈な補助艦建造の競争を開始した。就中我が国は卓越した建艦技術と猛烈な訓練とをもって制限せられた不備を補い、我が海軍の飛躍的発展は世界の驚嘆の的になった。これを恐れたアメリカは大統領クーリッジの提唱のもとに昭和2年、補助艦に関する第二次軍縮会議をジュネーブに開いたが、会議は決裂し、その後列強の競争はますます盛んとなった。それが幾分緩和せられたのは昭和3年の不戦条約によってであるが、これもまた畢竟(ひっきょう)現状維持を欲する列強の便宜のために結ばれたもので、世界平和の根本解決には豪も貢献するところがなかった。

ロンドン会議開催

ここにおいてアメリカ大統領フーバーとイギリス首相マクドナルドの協議に基づき、昭和5年に開かれたのが第三次軍縮会議とも称せられるロンドン会議である。このころには我が国も、イギリス東洋艦隊の急激な膨張とアメリカ太平洋艦隊の完成とにより、両国の仮想敵国が明らかに我が国であることを確認し得ていたから、深甚な考慮をもって慎重に会議の方針を定め、大型巡洋艦の対米7割、潜水艦の現有勢力維持、補助艦総保有量対米7割厳守の対策を練って会議に臨んだが、米英はもとより応ずる色なく、結局我が国は恨みを呑んでワシントン会議と同様の屈辱的制限に甘んずることを余儀なくせられた。

平和愛好の精神に対する侮辱

ここに我が国は再び苦杯を嘗めさせられた。しかもロンドン条約における我が国の譲歩は、国際協調を重んじ、各国民の負担を軽減して世界の繁栄を招こうとする平和愛好の精神から出たものであったが、貪欲飽くなきアングロサクソンには我が国の真意は通ずるはずはなく、徒(いたず)らに自国の優位を維持しようとして我が国の正当な要求を無視して顧みなかったのである。


※ワシントン会議における協定事項

※ロンドン会議における協定事項

(練習兵用歴史教科書  海軍省教育局 昭和19年5月)

[海軍さんの歴史教科書] 目次
海軍教育局の練習兵用の歴史教科書を見つけました。 200ページ程の内容。簡潔にわかりやすく、物語のように書かれてあります。 ...