[海軍さんの歴史教科書]3.国運の隆昌と東亜の情勢 


海軍の練習兵用歴史教科書を一緒に読んでいますが、このひとつ前の

「2.皇威の発展」からは、11代~14代の天皇の頃、はるか昔から日本は海洋国家だったこと。百済や任那など朝鮮半島の国が、日本に帰服していたことが、わかりました。

第二国歌と言われている「海ゆかば」という歌の歌詞は、大伴家持の言葉の中にあるものであることは、聞いたことがありましたが、萬葉集の該当部分が引用されていると、理解も深まりますね。

また、日本の国は国力もあり、産業も発展していました。船を造る材木についても、この材は船に、この材は宮殿を造るのに適しているなどという日本書紀の記述も、面白いですね。

さて、ここからは、「3.国運の隆昌と東亜の情勢」というテーマです。

それでは、どうぞ。

3.国運の隆昌(りゅうしょう)と東亜の情勢

(1)大陸文化の輸入

文教の伝来

朝鮮半島帰服以来、皇化を慕って我が国に帰化するものは極めて多く、これらによって大陸文化が伝えられて、我が国文化・産業は著しく向上した。

即ち応神天皇の御代、百済から阿直岐(あちき)が来朝し、次いで王仁(わに)が召されて 論語・千字文(せんじもん)等を献上し、我が国に初めて儒教・漢字が伝えられた。

その後、漢人 阿知使主(あちのおみ)も朝鮮から帰化して各種の学芸を伝え、王仁(わに)阿知使主(あちのおみ)の子孫はともに文事を以て長く朝廷に仕えたので、儒教・漢字の学習は朝廷を中心として次第に普及していった。

儒教思想の受容

かくて我が国に初めて伝えられた儒教は、その説くところが祖先を敬い、忠孝の道を尚(たっと)ぶなど、我が国古来の国民道徳と通ずるところが多かったため、容易に我が国に受容せられて、肇国以来の我が道徳観念はいよいよその光を増すこととなった。

儒教の伝来と外来思想摂取の態度

次いで第29代欽明天皇(きんめいてんのう)の御代には 百済から仏像・経典が献上せられて儒教も伝えられ、我が国文化に著しい影響を与えながら 次第に国民生活のうちに同化せられていった。

而してこれらの外来思想を輸入するにあたって取捨選択を憚らず、よくこれを同化することができたのは、わが国には肇国以来、尊厳無比な我が国体に基づき、国民道徳が巌(がん)として定まっていたため、我が国民は些(いささ)かも迷うことなく自主積極の態度を以てこれを摂取することができたからであった。

産業の発達

大陸文物伝来によって我が国産業もまた大いに発達した。即ち応神天皇の御代、秦人夕月君(ゆづきのきみ)が多くの部民を率いて百済から帰化してきたので、天皇はこれらに養蠶(ようさん)、機織(はたおり)の業を興さしめられ、更に阿知使主(あちのおみ)を支那に遣わして裁縫・機織の工女を招き、その技術を伝えしめられた。

その他 鍛冶(かじ)・醸酒(じょうしゅ)の工人も多く渡来し、建築・造船にも大陸の技術が伝えられた。

次いで 第16代仁徳天皇(にんとくてんのう)は 深く産業の振興に大御心を注がせ給い、諸国に勅して池を掘り 堤を築かしめるなど遊ばされ、農業の発達は著しいものがあった。

第21代雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)もまた産業の奨励に大御心を注がせ給い、農業の神に在します豊受大神(とようけおおかみ)を、丹波(たんば)から伊勢に移して 皇大神宮に近くお祭りになった。

後世これを下宮(げぐう)と申し上げる。

また天皇は大陸から更に各種の技術をも伝えしめられた。

国力の増進

このようにして御歴代天皇の御奨励により 国内の産業は大いに発達し、海外からの朝貢(ちょうこう)と相まって 内外の貢ぎ物は倉庫に充ちたため、雄略天皇の御代、これまであった齋蔵(いみくら)・内蔵(うちつくら)の外に新たに大蔵(おおくら)が建てられた。

このことは 當時(とうじ)に於ける著しい国力の増進を示すものに外ならない。

(2)革新の気運と聖徳太子の御事業

豪族専横(せんおう)の弊風

大陸文物伝来以後、我が国の産業・文化は著しく発達を遂げたが、この間 国内に於いては、豪族専権(ごうぞくせんけん)という弊風が生じ始めていた。

即ち氏族制度は、氏族の職業世襲を本質としていたから、時代の進むとともに朝廷に於ける重 要な地位や官職は 特定の氏族に占められ、やがて これらの豪族のうちから広大な土地や人民を兼併(けんぺい)して、次第に権勢をほしいままにするものが現れてきた。

殊に 當時朝廷に並び立って国政に與(あづか)っていた蘇我(そが)・物部(もののべ)の二氏のうち、物部氏が 第31代用明天皇(ようめいてんのう)の御代に亡(ほろ)んでからは、蘇我氏だけがますます勢力を得て、時代に不臣の行為を敢えてするようになった。

大陸及び半島の情勢

このような国内の情勢は そのまま当時の対外政策にも現れた。

當時 支那に於いては、国内紛乱の後を承けて 隋が全国を統一していたが、その勢威は次第に四隣を圧倒し、遂にはその触手を半島諸国にまで伸ばしはじめていた。

また 半島に於いては 新羅(しらぎ)の勢力が次第に強大となって しばしば任那(みまな)を侵(おか)し、欽明天皇(きんめいてんのう)の御代、遂に日本府が閉鎖せっれて 任那が滅んでからは、新羅は更に百済を侵し、朝鮮は次第に我が国から離れていった。

このことは 一つに国内に於ける豪族専権の弊風に災(わざわい)せられて、国威の宣揚に欠けることがあったためである。

聖徳太子の御事業

このように内外の情勢が漸(ようや)く多事となった時、内に於いては 我が肇国の精神に基づいて政治の刷新を断行し、外に国威の宣揚を図り給うたのが、第33代推古天皇(すいこてんのう)の皇太子 聖徳太子(しょうとくたいし)であらせられる。

[1] 国政の刷新

太子は 先ず 冠位十二階を定めて 官職世襲の弊害を除き、人材登用の道を開かせ給い、次いで 憲法十七条を作って 大義名分を明らかにし、豪族専権を抑え、また官史の向かうべき道を諭(さと)して 国政の刷新を図り給うた。

[2] 国威の発揚

また 太子は 當時の東亜の情勢に鑑み、国威を大いに宣揚しようと思し召され、再三新羅征伐の軍を遣わされるとともに、隋に小野妹子(おののいもこ)を遣わし、

日出づる處の天子、書を日没する處の天子に致す。恙(つつが)なきや。

と国書にかかげて 対等の自主外交を確立せられ、更に留学生を送って 直接支那の文化を採り入れ、我が国力の充実を図り給うた。

[3] 御事業の意義

太子が深く仏教を信じ、その興隆をお圖りになって 人民の教化に努めさせられ、或いは国史を編纂して我が肇国精神に対する国民の自覚を高めさせられたのも、一つに国政を革新し、国威を世界に御宣揚遊ばされるために外ならなかったのである。

土地人民の私有?併

其れ臣連等、伴造、國造、各己が民を置きて、恣情(こころのまま)に駈使(つか)ふ。

又國縣の山海林野池田を割(さきと)りて、以て己が財(たから)と為て争い戦うこと已(や)まず。

或(あるい)は数万頃の田を兼ね併せ、或は全く容針(はりさすばかりの)少地も無し。

「日本書紀」

 憲法十七条(抄出)

一に曰く、和を以て貴しと為し、忤(さか)うこと無きを宗と為せ。

二に曰く、篤(あつ)く三寶(さんぼう)を敬へ。三寶は仏法僧なり。

三に曰く、詔(みことのり)を承(うけたま)わりては必ず謹(つつし)め。君をば則を天とし、臣(しん)をば則ち地とす。天覆(おお)い地載せて、四時(しじ)順り行き、万気(ばんき)通うことを得(う)。地、天を覆はむと欲するときは、則ち壊(やぶ)るることを致さむのみ。是を以て、君言(のたま)ふときは 臣承(うけたまわ)り、上行ふときは下靡(なび)く。故に、詔を承りては必ず慎め。謹まずんば自(おのずか)ら敗れなむ。

七に曰く、人各(おのおの)任(おさし)有り。掌(つかさど)ること宜(よろ)しく濫(みだ)れざるべし。

十二に曰く、國司、國造、百姓に斂(おさ)めとること勿(なか)れ。

十五に曰く、私を背(そむ)きて公に向(ゆ)くは、これ臣の道なり。ること勿(なか)れ。

(3)大化改新(たいかのかいしん)

蘇我氏の滅亡

国家革新の御事業半ばにして 聖徳太子が薨去(こうきょ)せられてから、蘇我馬子(そがのうまこ)は 独り権勢を擅(ほしいまま)にし、その子蝦夷(えみし)、その孫 入鹿(いるか)になって不臣の行為は極まるに至った。

欽明天皇の皇子 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は これを見て 中臣鎌足(なかとみのかまたり)と謀り給い、第35代皇極天皇(こうきょくてんのう)の4年(1305)、入鹿を御親(みずか)ら誅し給うた。蝦夷(えみし)も 家を焼いて自殺したので、蘇我氏も遂に滅んだ。

大化改新の発端

かくて蘇我氏の滅亡とともに 聖徳太子の御意志はいよいよ実現せられることとなった。

即ち 第36代孝徳天皇(こうとくてんのう)は 先ず中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)を皇太子とし、鎌足を内臣(うちつつみ)に任じ、支那に学んだ高向玄理(たかむくのくろまろ)・僧旻(みん)を國博士(くにつはかせ)とし、それぞれ国政に参与せしめ給うた。

次いで 天皇は群臣を召して天神地祗を祭り給い、我が肇国以来の大義名分に基づき、天皇御親ら新政を行い給ふの御決意を明らかにせられ、はじめて年号を建て、大化(たいか)と称し、翌2年(1306)、改新の大詔(たいしょう)を発して 新政を断行し給うた。

注)大詔(たいしょう)–天皇が国民に告げる言葉、みことのり

改新の大詔によれば

(一)これまで豪族の私有していた土地・人民をすべて公地公民(こうちこうみん)とせられた。

(二)戸籍を作り、国民にはすべて男女とも6歳になれば一定の田を班(わか)ち授け、死ねば朝廷に収めることとせられた。これを班田収授(はんでんしゅうじゅ)という。

(三)新たに税制を定めて、祖・庸(よう)及び調(ちょう)をすべての国民に課せしめられた。

(四)これまでの管制を改めて、中央に於いては大連・大臣を廃して八省百官を置き、地方には国造・懸主等を廃し、新に國・郡を分かって国司(こくし)・郡司(ぐんじ)を置き、いづれにも官職世襲の制度を改めて 廣く人材を登用することとせられた。

赤字は打ち込み人がつけました

大化改新の意義

かくて 豪族跋扈(ばっこ)して国政を専断し、土地人民を私有して君臣の分を紊(みだ)していた氏族制度時代末期の弊害は、ここに全く除去せられ、国政の刷新により、わが肇国の大理想に基づく天皇御親政の統一政治が再び実現せられて、一君万民の國體に基づく皇威の伸張、国力の充実が期せられることとなった。

世にこれを大化改新という。

大化改新の御決意

天は覆い地は載せ、帝道唯一なり。而るに 末代澆薄(うすら)ぎて、君臣序を失へり。

皇天手を我に假(か)し、暴逆を誅し殄(た)てり。

今共に心の地を瀝(しだ)みつ、而して今より以後、君は二つの政無く、臣は朝(みかど)に貳(そむ)くこと無し。

若し此の盟に貳(そむ)かば、天灾(わざわい)し、鬼誅して人伐ち、皎(いちじる)きこと日月の如し。

「日本書紀」

(4)国威の発展

東北経営

大化の改新後、国力の充実に伴って 国威はいよいよ発展し、国の内外に輝くこととなった。

先ず圏内に於いては東北の開拓がある。即ち第37代齊明天皇(さいめいてんのう)の御代、阿部比羅夫(あべのひらふ)は 水軍を率いて 秋田・津軽に進み、渡島(わたりじま)の蝦夷(えぞ)をも帰服せしめ、更に肅愼(みしはせ)に遠征して 皇威を遠く輝かせたが、その後もこの地方の経営は著しく進み、第43代聖武天皇(しょうむてんのう)の御代には 陸奥に多賀城(たがじょう)、出羽に秋田城が築かれて大いに開拓が進められた。

蝦夷の帰服と撫育

次いで 第50代桓武天皇(かんむてんのう)の御代、坂上田村麿呂(さかのうえのたむらまろ)は よく恩威(おんい)を並び施して 蝦夷を屈服せしめ、膽澤(いざわ)・志波(しは)の両城を築いて東北経営の根拠としたので、御歴代の皇化普及の御苦心は 遂に実を結んで、東北経営もほぼこの時代を以て完成した。

この間、帰順した蝦夷に対しては これを全国に配置して撫育(ぶいく)を加え、やがてこれらは全く国民のうちに融合して皇恩の広大無辺(こうだいむへん)を仰ぎ奉った。

南島の入朝

また 西南方面においても 推古天皇の御代以来、元明天皇の御代にかけて、や(王に夜の字)玖(屋久島)・外褹(たね、種子島)・奄美(大島)・度感(どこ・徳之島)・信覚(しがき・石垣島)・球美(くみ・久米島)等の九州以南諸島の住民が皇化を慕って続々入朝し、皇威は琉球にまで及ぶようになった。

また九州南部の隼人(はやと)も 第44代元正天皇(げんしょうてんのう)の御代には全く帰服した。

かくて新政の大精神に基づき国内統一の実が挙げられるとともに、国威は更に海外に輝いたのである。

半島の離反

當時大陸では隋が既に亡んで、これに代わって唐が興り、朝鮮半島では新羅の勢がますます強くなって、唐の力を借り、高句麗・百済を滅ぼして半島を統一しようとする形勢にあった。

齊明天皇(さいめいてんのう)は 百済救済のため、皇太子 中大兄皇子とともに御親ら九州へ軍を進め給うたが、程なく同地で崩御(ほうぎょ)あらせられた。

皇太子は天皇の御意志を継いで 大軍を半島にお遣わしになったが、時に利あらず、百済・高句麗が相次いで亡んでからは、専ら国力の充実に邁進せられることとなった。

遣唐使の派遣

しかし 大陸との交通はこれによって衰えることなく、国運の隆昌とともにますます隆えて行った。

即ち 朝廷は国威の宣揚と文化摂取(せっしゅ)のため、しばしば遣唐使(けんとうし)を派遣し給ひ、当時は航海の危険が極めて大であったにもかかわらず、使節は敢然(かんぜん) 東支那海(ひがししなかい)を乗り切って使命を全うした。

国民もまた争って大陸に渡航し、文化の摂取と知識の吸収に努め、旺盛な海外発展の精神を遺憾なく発揮した。

渤海(ぼっかい)の入貢

かくて聖武天皇(しょうむてんのう)の御代には、当時朝鮮北部・満州・沿海州に亙(わた)って建国した渤海(ぼっかい)も、皇化を慕ってしばしば入貢するようになり、我が国からも使節が派遣せられた。

これらは当時に於ける国威の発展と国民の海外発展の気運が、いかに旺盛であったかを示すものである。

(5)國内制度の整備

律令の制定

齊明天皇(さいめいてんのう)の崩御後、中大兄皇子が即位し給うて、第38代天智天皇(てんちてんのう)と申し上げる。天皇は大化改新の大精神に基づきますます統一政治の徹底を期し給うて、法制の整備にお努めになった。

爾来 歴代天皇は大御心をその完備にお注ぎになり、第42代文武天皇(もんむてんのう)の大寶(たいほう)元年(1361)、大寶律令(たいほうりつりょう・大宝律令)が完成せられた。今に遺(のこ)るものは元正天皇(げんしょうてんのう)の養老2年(1378)に修正せられた養老律令(ようろうりつりょう)であるが、これは大寶律令と大差ない。

令の内容

令は一般の行政法規で、その規定によれば

(一)先ず官制に於ては、中央に神祇(じんぎ)・太政(だじょう)の二官が置かれ、神祇官は最も重く 神祇(じんぎ)・祭禮(さいれい)を司どり、太政官は中務(なかつかさ)・式部(しきぶ)・治部(ちぶ)・民部(みんぶ)・兵部(ひょうぶ)・刑部・大蔵(おおくら)・宮内(くない)の八省を統括して、その他の諸政を司どった。

地方には 国司(こくし)・郡司(ぐんじ)を置いて行政に當らしめ、別に都には左右京職(きょうしき)、外交・国防の要地である筑紫(つくし)には 大宰府(だざいふ)が置かれた。

(二)次に 兵制は国民皆兵の徴兵制度であって、全国の壮丁(そうてい)の三分の一を兵士とし、諸国の軍団に廃して武技を練らしめ、選ばれたものが衛士(えじ)として都に上り、五衛府(えふ)に配せられて宮門を守り、特に東国の武技に秀でたものは 防人(さきもり)として筑紫(つくし)、その他の邊要の地に派遣せられ、国防に當った。

(三)学制としては、主に官史の子弟の養成を目的として、都には大学、諸国には国学(こくがく)が置かれた。

(四)その他 全国の土地・人民を公地公民としてこれに班田収授の法を施し、租庸調の税制を課することは 大化改新の制度そのままであった。

律の大要

また律は 今の刑法に當り、国民生活のすべての方面に関する罪が挙げられ、刑罰が定められた。

即ち刑罰には 笞(ち)・杖(ちゃう)・従(づ)・流(る)・死(し)の五等があり、我が国情から謀反(むほん)・大逆(たいぎゃく)・不孝・不義等の国家・皇室或いは父母・上長に対するものが特に重罪とせられた。

律令制度の特色

このように律令は、範を主として唐制にとって制定せられたものであるが、よく我が国古来の国情や国民生活を斟酌(しんしゃく)し、あくまで我が國独自の精神によって貫かれているのであって、単なる唐制の模倣(もほう)でなかったところに 我が律令制度の特色があった。

皇都の建設

かくて内には政治の諸機関が次第に備わり、また外に大陸諸国と交通もますます頻繁となって、ここに壮大な皇都の建設が行われることとなった。

念(即ち元明天皇の和銅(わどう)3年(1370)、奈良に都を御奠(さだ)めになってから、第49代光仁天皇(こうにんてんのう)の御代まで七代70余年の間、この地は我が国の皇都となったが、この新都は 東西四十町、南北四十五町、朱雀大路(すざくおおじ)を以て 左京・右京に分かち、その北端に宮城を置き、條坊井然(じょうぼうせいやん)として壮麗極まりなく、ここに政治と文化の華が開かれた。

世にこれを平城京といふ。

次いで桓武天皇(かんむてんのう)の御代になり 京都に都を移し給うたが、その規模と都市の美観は更に雄大・壮麗を極め、明治維新に至るまで長く我が皇都となり、文化発展の中心として繁栄した。

これを世に平安京といふ。

(6)国風文化の発展

国家意識と国風文化

改新後 我が国文化は、国家制度の整備と大陸文化の輸入とによって、年とともに著しい発展を遂げた。

而してこの時代の文化は、決して単なる外来文化の模倣でなく、国家意識の興隆に伴い、我が国固有の国家観念は ますます昂揚せられて、国風文化の発展をみたところにその特色があった。

史誌(しし)の編纂

国内に於ける統一政治の進展と外来文化との接触とによって、著しく高めらてきた国家意識の興隆は、まず史誌の編纂となって現れた。

即ち 国史には元明天皇の御代、太安万侶(おおのやすまろ)が稗田阿礼(ひえだのあれ)の誦(よ)む古傳を記録して奉った古事記と、元正天皇の勅令により、舎人(とねり)親王が撰修せられた日本書紀とがある。

ともに我が肇国の宏遠(こうえん)を説き、御歴代の御聖業を記して余すところがない。

特に日本書紀は 国家の正史として長く朝廷で重んぜられ、これから平安中期に至るまでの間、国史勅撰のことは引き続き行われて、続日本紀(しょくにほんき)・日本後紀(にほんこうき)・続日本後紀(しょくにほんこうき)・文徳実録(ぶんとくじつろく)・三代実録(さんだいじつろく)が編纂せられた。

これらと日本書紀とをあわせて 六国史(りっこくし)といふ。

また 風土記(ふどき)は元明天皇が諸国に命じて、国内の地勢・産物・伝説等を記し奉らしめ給うた、我が国最古の地誌である。

和歌の発達

また この時代には 和歌が大いに発達した。萬葉集(まんようしゅう)は 主としてこの時代の和歌を集めたもので、よく我が国最古の風俗・人情を伝えているが、就中その純朴な歌風のうちに豊かに表現せられている忠君愛国の至誠、敬神崇祖(けいしんすうそ)の精神は、当時の国民が如何に熱烈な国家観念に燃えていたかを示している。

仏教の興隆

仏教も聖武天皇(しょうむてんのう)の御代を中心として、遥かに前代を凌ぐ興隆を示したが、当時の国家観念の昂揚に伴い、国家鎮護(ちんご)の教法として発達したところに、この時代の仏教の特色があった。

即ち聖武天皇は仏教の功徳(くどく)により国家の隆昌、国民の福祉をお求めになり、数多(あまた)の寺院・仏像などを造らしめ給うたが、就中 天平年間、万民の災厄(さいやく)を払い、天下を安泰ならしめるために、国毎に僧・尼の二寺を建てしめ給うた。

これがいわゆる国分寺及び国分尼寺(こくぶんにじ)である。

また 天平15年(1403)、天皇は大仏鋳造(だいぶつちゅうぞう)の御事を発願(はつがん)あらせられ、第46代孝謙天皇(こうけんてんのう)の天平勝寶(てんぴょうしょうほう)4年(1412)、遂にその竣巧(しゅんこう)を見たが、その偉容はまさに国運の隆昌を象徴するものであった。

また この時代の仏教の興隆が 仏教の慈悲の精神に基づき 各種の社会事業を盛ならしめたことも、すべて当時に於ける国家意識の発露であった。

天平文化の精華

かくて 聖武天皇(しょうむてんのう)の御代を中心とする奈良時代は、大化改新以来の革新政治が皇都の完成を以て実を結び、国威は海外に輝いて唐との通交も好調を保ち、ここに仏教の興隆に伴って美術・工芸に於ても燦然(さんぜん)たる文化の華が開かれた。

これを世に天平文化と呼ぶ。

而して天平文化は唐の文化の影響を受けて発達したものであったが、更に唐の文化の起源を探れば、印度・波斯(ペルシャ)等の文化、更に遠くはギリシャの文化が いわゆる西域(さいいき)諸国を経て支那に入り、支那固有文化に強い影響を與(あた)へ、唐の文化として大成せられたものであった。

随って 我が天平文化は 実に東西文化を融合し、これを我が固有文化に同化せしめた宏大(こうだい)な世界的文化であった。

ここに 天平文化の我が国文化の精髄たる所以がある。

国家意識の昂揚

皇者神二四座者天雲之雷之上爾廬為流鴨   (柿本人麿)

御民吾生有験在天地之榮時爾相樂念者    (海犬養岡麿)

天平文化の世界的性格

  


「練習兵用歴史教科書」(海軍省 教育局 昭和19年)より

目次↓

[海軍さんの歴史教科書] 目次
海軍教育局の練習兵用の歴史教科書を見つけました。 200ページ程の内容。簡潔にわかりやすく、物語のように書かれてあります。 ...


~ column ~

感想

聖徳太子の十七条憲法ってすごくない?
この教科書に書かれているのは、上の条文だけですが、今、打ち込んでいくなかで、改めて十七条憲法を読むと、そのすごさにビックリします。
例えば、12条は、この教科書で紹介している「國司、國造、百姓に斂(おさ)めとること勿(なか)れ。」の後ろにも文言が続いています。
「国に二君なく、民(たみ)に両主なし。率土(そつど)の兆民(ちょうみん)は、王をもって主(あるじ)となす。任ずる所の官司(かんじ)はみなこれ王の臣なり。何ぞ公(おおやけ)とともに百姓に賦斂(ふれん)せんや。」
12条は、どういう意味かというと、
国司・国造は勝手に人民から税をとってはならない。国に2人の君主はなく、人民にとって2人の主人などいない。国内のすべての人民にとって、天皇だけが主人である。役所の官吏は任命されて政務にあたっているのであって、みな天皇の臣下である。どうして公的な徴税といっしょに、人民から私的な徴税をしてよいものか。
ということ。公の心で仕事をしなさい、ということですよね。
また、15条もこの後があって、
「およそ人、私あれば必ず恨(うらみ)あり、憾(うらみ)あれば必ず同(ととのお)らず。同らざれば則ち私をもって公を妨ぐ。憾(うらみ)起こるときは則ち制に違(たが)い法を害(そこな)う。故に、初めの章に云(い)わく、上下和諧(わかい)せよ。それまたこの情(こころ)なるか。」
という文言があります。
意味は、
私心をすてて公務にむかうのは、臣たるものの道である。およそ人に私心があるとき、恨みの心がおきる。恨みがあれば、かならず不和が生じる。不和になれば私心で公務をとることとなり、結果としては公務の妨げをなす。恨みの心がおこってくれば、制度や法律をやぶる人も出てくる。第一条で「上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議しなさい」といっているのは、こういう心情からである。
です。
なんか、すごくないですか?
今を生きる私たちも、それぞれの場所でこの精神を学びなおさなければならないですよね。