[海軍さんの歴史教科書]4.武士の勃興と元寇の撃攘 


前の項目「3.国運の隆昌と東亜の情勢」では、奈良時代から平安時代、国の力がついて、今の私たちが見てもびっくりするくらい民主的で公の精神に則った法律ができ、仏教が興り、天平文化が華開くまでの世の中の動きが、まるで映画をみるように、すんなりと私たちの脳裏に入ってきたと思います。

学校で習った人も、忘れちゃっていた人も、あぁ、こういうことだったのかぁ、、と、すと~んと臓腑に入ってくるような記述で、引き込まれてしまいますね。

さて、ここからは、武士の勃興です。どんなお話になるのでしょう。

それでは、どうぞ。

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武士の勃興と元寇(げんこう)の撃攘(げきじょう)

1(1)政治の紊乱(びんらん)と国防の危機

朝政の隆替

桓武天皇(かんむてんのう)の平安奠都(てんと)以来、御歴代天皇はますます内治の振興と文教の隆昌を図り給うて、皇威はいよいよ国の内外に輝いた。

ところが やがて藤原氏が出て 次第に権勢を擅(ほしいまま)にし、遂には摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)となって万機(ばんき)をことごとく専断するようになってからは、朝運も漸(ようや)くお衰え遊ばされていったのは、まことに畏(かしこ)き極みであった。

延喜・天暦の聖代

この間、第60代醍醐天皇は權臣(かんしん)の跋扈(ばっこ)に鑑(かんが)み、菅原道真(すがわらみちざね)を重用して 親政の實を挙げ給ふとともに、大御心を深く国政の刷新に注がせ給ひ、次いで 第62代村上天皇(むらかみてんのう)も万機を親裁あらせられて、政道の振(しんしゅく)を図り給うた。

されば この御代は延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)の聖代(せいだい)と称せられ、後の建武中興は、この親政の盛時に復(かえ)すことを目標として進めらえれたのである。

しかしその後、藤原氏の権勢はますます強く幾多の弊害を生じたが 就中 国家の政治を一門を以て私(わたくし)したことは、大義名分を紊(みだ)すものであるとともに、人材登用の道を塞(ふさ)いで 政治の紊乱(びんらん)を来たし、また 多くの荘園(しょうえん)を兼併(けんぺい)して栄華を極めたので、律令制度は有名無実となり、社会の秩序は混乱の極に達した。

かくて 藤原氏擅権(せんけん)の時代を通じ 大化改新の精神は失われ、やがて国防の危機さへ招かれるようになったのは、まことに遺憾の極みであった。

注)紊乱(びんらん)– 乱れること

(しんしゅく)– 振粛。緩んだ気風を奮い起こし、引き締めること。

擅権(せんけん)–ほしいままに権力をふるうこと

国防の危機

當時朝鮮では 新羅が既に衰えて国政が乱れ、その邊民(へんみん)はしばしば我が沿岸に出没していたが、第55代 宇田天皇(うたてんのう)の御代、賊船が遂に対馬・九州に入寇して来た。

また 渤海(ぼっかい)の滅後、その地に刀伊(とい)が興り、海賊となって近海を侵略していたが、第68代 後一條天皇(ごいちじょうてんのう)の御代、突然その兵船数十艘(そう)が 対馬・壱岐(いき)の二島を侵し、次いで九州に迫った。

これを刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)といふ。

いづれも その地の将兵が よく奮戦して賊船を斥(しりぞ)け、国威を辱めるようなことは些(いささ)かもなかったが、このような外寇を受けたのは、一つには 当時の国民が、海外雄飛の伝統を忘れて攻撃が最良の防御であることを知らず、僅(わず)かに 壱岐・対馬をはじめ九州の沿岸に城塞を築いて防備に専念し、水軍の充実に努力を缺(か、欠)いていたために外ならない。

(2)武士の勃興

国民皆兵の制度

我が国は肇国以来、天皇御親率の下に、国民皆兵を建軍の本義とする。

古く氏族制度時代には 大伴・物部の二氏が 同族及び部民を率いて 世々郡司を司どり、ことある毎に 天皇は御親ら軍を率いて出陣し給ひ、各氏族は その部民を率いて軍務に服し、忠誠を盡(つ)くし奉った。

即ち 神武天皇の御東征以来、神武を発揮して皇威を輝かし給うた御歴代の御聖業には、国民こぞって身命を捧げ、これを翼賛(よくさん)し奉ったのである。

兵制の推移

後、大寶令によって徴兵制度が施行され、国民皆兵の制度はますますその實が挙げられることとなったが、やがて平安初期になり 国内統一の御事業が概ね完成せられてからは、専ら東国の武技に秀でたものだけが健皃兵(こんでんへい)・随身兵(ずいじんへい)として宮門を護衛することとなり、ここにはじめて武事を専らとするものの発生を見た。

地方武士の発生

その後、藤原氏擅権(せんけん)の時代を通じて 律令制度が次第に弛(ゆる)み、権門勢家が 荘園として多くの土地を私有するに及び、藤原氏一門の栄華文弱(えいがぶんじゃく)がこれに伴って社会の秩序は次第に乱れ、特に地方は騒然(そうぜん)たる状態となった。

ここに於て地方の豪族は自衛のため私兵を養い、武技を練って自ら秩序の維持に任じ、やがて次第に勢力を得て 地方に台頭してきた。

これが地方武士の発生である。

注)権門勢家(けんもんせいか)– 権力や勢いがある家柄

文弱(ぶんじゃく)– 文学や芸術にふけってばかりいて弱々しいこと

源平二氏の興起

かくて平安末期になり、これら武装した豪族のうちから その統領(とうりょう)して大なる力を有するものが次第に現れてきた。

これらは多く臣籍(しんせき)に降下せられた皇族、或いは中央の貴族であって、藤原氏が政治を私して権勢を擅(ほしいまま)にしたため、中央に志を得ないこれらの貴族は 地方に移住し、家名を貴ぶ地方武士に推戴(すいたい)せられて その統領となったものであった。

その中でも もっとも著しく現れたものが、桓武天皇(かんむてんのう)の曾孫 高望(たかもち)王からでた平氏と、清和天皇の御孫 経基(つねもと)王からでた源氏とであった。

二氏の対立と平氏の滅亡

源氏は古くからたびたび東国の鎮定にその武名を轟(とどろ)かせて 勢力を東国に扶植(ふしょく)したのに対し、平氏は瀬戸内海の海賊を討って西国に勢力を張(かくちょう)し、やがて二氏は地方の治安の維持に成功して中央に進出し、遂に両者の勢力は対立することとなった。

その後、保元(ほげん)・平治(へいぢ)の両乱によって 平氏はその勢力が極めて盛となり、清盛(きよもり)に至って 平家一門はすべて高位高官に登り、遂に藤原氏に代わって 一時政治の実権を握った。

しかし 清盛の横暴が募るに及んで 諸国の源氏は各地に蜂起(ほうき)し、源頼朝(みなものとのよりとも)はこれに応じて鎌倉に兵を挙げ、遂に寿永四年(1845)、長門(ながと)の壇浦(だんのうら)に全くこれを滅した。

打ち込み人 注)寿永四年(1845)— 1845年は、日本独自の暦「皇紀1845」年です。「西暦1185年壇之浦の戦い」というと、学校で習った年号になりますね。

「西暦+660年=皇紀」になります。

今年「西暦2018年」は「皇紀2678年」です。

ちなみに 皇紀元年は、神武天皇が橿原(かしはら)で即位された年です

鎌倉幕府の成立

頼朝は 平氏滅亡の後もなほ鎌倉に留まって 士風剛健な東国に勢力を養ひ、建久(けんきゅう)3年(1852)、征夷大将軍に任ぜられて 幕府を鎌倉に開いた。

かくて頼朝は武力を以て県内の秩序を恢復(かいふく)し、武士道を奨励してこれに基づく質実剛園(しつじつごうけん)な政治を行ったから、藤原氏の専横(せんおう)以来、悪政と争乱に苦しんだ地方武士はみな幕府の親政に服し、政治の実権は幕府に移り、遂に武家政治の基礎が定められることとなったのである。

(3)武士道の発達

武士道の淵源

武士の勃興によりその生活のうちに、自(おのづか)ら特色ある道徳の発達を見た。これを武士道といふ。

しかし この武士道も その淵源(えんげん)は 遠く肇国の古(いにしえ)に遡(さかのぼ)るものである。

即ち 我が国上代の天皇を中心とし奉る氏族制度の時代に於ては、君国のためには一身を顧(かえり)みないといふ大義が何よりも重んぜられて、国民は忠誠勇武の精神に富み、また一族の名誉を重んじ一身を捨てて顧みない犠牲的精神が、大義を重んずる忠君愛国の至誠に基づいて、極めて強固な国民精神をなしていた。

海行かば水漬(みづ)く屍(かばね)、山行かば草生(む)す屍を家門の名誉とする強い覚悟も、大君の醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つ雄々しい決意も、みな古来の伝統に基づくものに外ならなかった。

東国武士の士風

この上代の国民精神は、文弱な藤原氏が政権を専らにしてから一時衰えたが、遠隔の地方には、額(ひたい)には矢を立つとも背には立てじとする東人(あづまびと)の士風に見られるような、剛健勇武の精神が長く維持せらていた。

蓋(けだ)し 東国は古来蝦夷に対する要害の地として、住民の間には常に尚武(しょうぶ)の気風が重んぜられ、遠く都を離れていたため 支那文化の影響を受けることが少なく、我が国固有の氏族制度的精神がよく保たれていたからである。

武士道の奨励

源頼朝は鎌倉に幕府を開くに當り、この質実剛健な東国武士の士風を幕府政治の基礎に置くとともに、ますます士風の振作(しんさく)に努めたので、ここに上代の国民精神は武士道として復活した。

しかも この武士道の発達により、争乱と悪政に悩んだ社会に新たな秩序が齎(もたら)されたのである。

武士道の精神

(一)武士道に於ては 先ず主従(しゅじゅう)の間の道徳として 恩義の念が重んぜられた。即ち恩を蒙(こうむ)った主君のために、職場に於て死を鴻毛(こうもう)の軽きに比することは 武士最高の道徳であった。

(二)武士の間に於ては 親子・一族の結合と道徳も、また厳格に保たれていた。

特に子が親に孝養を盡すことは、特に重要な義務として重んぜられた。

(三)このことは同時に 家門の名誉を重んずる精神であり、家系と家名を尊重することが、武士の間には特に発達した。

武士が敵と戦うに當っては、先づ名乗りを挙げ祖先を明らかにし、その名誉にかけて奮戦した。

(四)このように 武士の主従・親子の関係は 利害を超えていたから 犠牲的精神は特に発達し、一身を捨てて主君に忠誠を盡すことも、実にここに発していた。

(五)また武士は相互の間にあっては信頼を旨とし、団結が強かった。また大いは節義を重んじ礼儀を尚び、日常生活に於ては質素・清廉を重んじ、以て堅忍持久の精神を養った。

(六)武士は戦陣に臨んでは非常な勇気を必要としたから、神を敬い佛(ほとけ)を信じ、特に禅宗(ぜんしゅう)に帰依(きえ)して不動の信念と意志の鍛錬(たんれん)に意を用いた。

その他武士は 風雅の道に嗜(たしなみ)あることも重んぜられた。

武士道の発達とその精華

かくて東国武士の士風は 頼朝の振作によって長く鎌倉武士の間に遵奉(じゅんぽう)せられ、武士道の重要な要素となって発達した。

それは 武士本位の道徳として、その主従観念が単に武士主従間の恩義の念に止まる時は、君臣の自覚に缼(か)けることもあったが、国民の国家観念が昂揚せられる時は、直ちに君国のため一命を捧げるちう大義に進むものであった。

かの元寇(げんこう)の時、国民上下一致して外敵に當り、よく我が國體(こくたい)の尊厳を擁護(四)うご)し奉ったのは、実に武士道精神の発揚に外ならなかった。

また建武中興から吉野時代にかけて大業を翼賛し奉り、大義に殉(じゅん)じた勤皇諸将の忠勇義烈の精神も、我が武士道の極致であった。

かくて武士道は永く後世の国民精神に深い影響を与え、今日もなお国民精神の精髄たる我が軍人精神の中に脈々として伝えられているのである。

防人及び東人の忠勇

是の東人は常に曰く、額(ひたい)には箭(や)は立つとも、背は箭は立たじといひて、君を一つ心を以て護るものぞ。

(「続日本紀」稱徳天皇(しょうとくてんのう)宣命)

今日よりは顧みなくて大君の 醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つ吾は

(火長今奉部與會布)

天地(あめつち)の神を祈りて幸矢(さつや)貫き 筑紫(ちくし)の島をさして行く吾は

(火長大田部荒耳)

武士道の精神

軍(いくさ)の習(ならひ)、命を君に奉って、職場に罷(まか)り出(い)づる事なれば、再び帰参すべしと 存ずべきに非ず

「源平盛衰記」

軍と云うは、家を出でし日より、敵に組みて死なんとこそ存ずる事なれ。

身を全うせん、命を死なじと思はんには、本より軍場には出でぬには如かず。

敵に組んで死するは武者の本也。命を惜しみて逃ぐるは人ならず。

「源平盛衰記」

弓矢取る身は言一つも輙(たやす)からず。生きても死しても、名こそ惜しけれ。

「源平盛衰記」

(4)元寇(げんこう)の撃攘(げきじょう)

蒙古の興起

當時大陸に於ては 新羅の滅後、半島に高麗が興り、支那に於ては唐の亡びた後、宋(そう)が興って国内を統一したが、北方から金に圧迫されて南遷し、両者対立の状態にある時、北方に更に蒙古の勃興を見た。

即ち鎌倉時代の初期、黒龍江の上流に遊牧の生活を送る蒙古民族の中から成吉思汗(ジンギスカン)が現れ、内外蒙古を統一して蒙古帝国を建てた。

その後、蒙古は頻(しき)りに四方を攻略し、金を滅ぼして満州・北支を併せ、次いで東は高麗を服従せしめ、西は西蔵(チベット)、次いで中亜の諸国を征服し、更に遠くヨーロッパに侵入してロシヤを征服し、ハンガリー・ポーランド等を蹂躙して空前の大圏を形成した。

蒙古の来牒

かくて蒙古は忽必烈汗(フビライハン)に至ってますます強く、遂に不遜にも我が国をも臣従せしめようとし、第九十代亀山天皇の文永5年(皇紀1928/西暦1268年)、國書を我が国に送って服従を勧めた。

時の執権北条時宗(ほうじょうときむね)は断固としてこれを斥け、西国(さいこく)の諸将に命じて防備を堅くさせ、国民もまた上下一致して戦備を整へた。

文永の役

やがて蒙古は國號(こくごう)を元と称したが、第九十一代宇田(うた)天皇の文永11年(皇紀1934)、元軍四萬は艦船九百余艘に分乗して来寇し、先ず對馬・壱岐を侵し、進んで博多に迫った。

敵が巧妙な集團戦法を用ひ火器を使用したため、形勢は一時我に不利となったが、わが軍はよく奮戦してこれを防いだ。

時にたまたま神風が大いに起こって敵艦は多く破れ、残兵は辛うじて逃れ去った。これを文永の役といふ。

弘安の役

その後、現は使を遣はして我を脅かしたが、時宗はこれを鎌倉に斬って断固たる決意を内外に示すとともに、博多湾沿岸、その他に石壘(せきえい)を築かせてますます守備を厳にし、更に進んで蒙古征伐の計画さへ樹て、国民の戦意は大いに揚がった。

果せるかな弘安4年(皇紀1941)、元軍は再び大挙して来寇した。

五月、東路軍(とうろぐん)四万は先ず壱岐・対馬を侵し、進んで博多に迫ったが、我が軍は石壘(せきえい)に據(よ)って防戦し、またしばしば敵艦を急襲して敵将を殪(たお)し、大いに敵の心膽(しんたん)を寒からしめた。

次いで七月、江南軍(こうなんぐん)十万は海を蔽(おお)うて鷹島(たかしま)に来襲し、まさに東路軍と合して我に迫ろうとしたとき、神風が再び起こって敵艦は多く覆没(ふくぼつ)し、我が軍はこれに乗じて大いに敵を破った。これを弘安の役といふ。

戦勝の因由

元寇は未曾有の国難であったが、畏(かしこ)くも龜山(かめやま)上皇は御身を以て国難に代わることを皇大神宮に祈り給ひ、執権時宗は身を捨てて難局に善処し、将士の奮戦、社寺の熱祷(ねっとう)はもとより國民もまたことごとく奮起し、上下一致して元寇撃攘(げきじょう)のことに当たったため、神助は神風となって我が國を、お護(まも)りになり、さしもの大敵をも撃攘して国威を發揚することができたのである。

神國思想の展開

かくて元寇を機として國民の我が國體に對する自覺は大いに高まり、我が國の神國たる所以が国民の間にいよいよ固く信ぜられるやうになった。

国難に際し我が國民が皇室を中心として挙国一致の實を挙げ得たのは、實はこの国家意識の昂揚によるものであった。

されば神国思想によって深められたこの國體観念は、後に勤皇精神を育み、幕府の存在が我が国本来の姿でないことを国民に自覺せしめ、それがやがて建武中興を促進し奉ることとなったのである。

海外発展の促進

また元寇の撃攘による國民精神の昂揚は 国民の海外発展の気運を促し、戦後、西海の士民は盛に貿易に従事して、大陸への進出を試み始めた。

國體の自覺と神國思想

凡て天照皇大神天統を耀(かがや)かしたまひしより、日本今皇帝日嗣を受けたまふに至るまで、聖明の覃(およ)ぶところ、左廟右禝(さびょううしょく)の霊、得一無二の盟に属せざるはなし。

百王の鎮護孔(はなは)だ昭(あきら)かに、四夷の脩靖(しゅうせい)紊(みだ)るることなし。

故に皇土を以て永く神國と號(ごう)す。

知を以て競ふべきにあらず、力を持って争ふべきにあらず、以て一二し難し。乞ふ、思量せよ。

(贈蒙古國牒案)

すゑのよの末の末までわが國はよろづのくににすぐれたる國

(東巖慧安[宏覺禪師])

西の海よせくるなみもこころせよ神のまもれるやまと島根ぞ

(中臣祐春)


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