「安積香山」の歌と「難波津」の歌は、和歌を習う人が初めに習う歌なんですって。


安積香山影さへ見ゆる山の井の

    浅き心を我が思はなくに

(前采女(奈良時代前期)/ 万葉集)

郡山っ子なら、だれでも知っている(と思われている(^-^;)この歌は、

万葉集の仮名序において、

難波津に咲くやこの花冬ごもり

    今は春べと咲くやこの花

(王仁(わに)/ 万葉集 仮名序)

といっしょに、歌を習う人が初めに習う歌だと紹介されています。

「この二歌は、歌の父母のやうにてぞ、手習ふ人の初めにもしける」
スポンサーリンク
simplicity11

安積香山影さへ見ゆる、、の仮名序解説は

「安積香山のことばは、采女(うねめ)のたはぶれよりよみて、
 葛城王(かつらきのおほきみ)を陸奥(みちのく)へつかはしたりけるに、
国の司(つかさ)、事おろそかなりとて、
まうけなどしたりけれど、すさまじかりければ、
采女となりける女の、土器(かはらけ)とりてよめるなり。
これにぞ王(おほきみ)の心とけにける。」
                       万葉集 仮名序より

この歌は、地方豪族の子女から選ばれ、宮中の雑事に奉仕した女官である「采女」が、

たわむれながら詠んだ歌であり、

葛城王を陸奥に派遣した時に、王は国司の接待がなっていないといわれ、

もてなしの宴の準備はあったけれど、少しもお楽しみにならなかったので、

かつて采女だった女性が、盃を捧げ持って詠んだ歌である。

これで王の心は和やかになった。

宮中で仕えたことがあった女性が、機転を利かせて素晴らしい歌を詠んだので、

葛城王の心が和やかになった、というお話ですね。

「采女(うねめ)」って、

そこらの普通の庶民の女性がなっていたのかな、

と勝手に思っていましたが、間違いでした(^-^;

そりゃそうだよね。

そこらの女性が、高貴な方を接待する場所に同席しているはずがないですよね。

「采女」は、
宮中の雑事をする女官で、
「後宮職員令」に
「郡の少領以上の姉妹及び女の形容端正なる者」から貢上せよ、
とあります。

雄略天皇時代から、采女に関する記録があるそうです。

当意即妙に歌を詠んで、その場の雰囲気をやわらげた、なんて、素敵ですよね。

千年以上も前に、こんな優雅なシーンがあったなんて、

素敵すぎる☺

さて、もう一つの歌

難波津に咲くやこの花、、の仮名序解説は

難波津の歌は、帝の御初(おんはじ)めなり
 大鷦鷯(おおさざき)の帝(みかど)の
 難波津にて皇子(みこ)ときこえけるとき、
東宮を互いにゆづりて
位に即きたまはで三年(みとせ)になりにければ、
王仁(わに)という人の訝り思いてよみてたてまつりける歌なり
「この花」は、梅の花をいふなるべし

大鷦鷯(おおさざき)の帝(みかど)は、仁徳天皇のことです。

応神天皇の没後、大鷦鷯(おおさざき)の尊(みこと)と

弟の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)とが、

どちらが皇太子として皇位を継ぐかを譲り合って

なかなか決まらず3年が過ぎてしまった。

その状況をみて、和仁(わに)という百済から帰化した学者が詠み

その後、仁徳天皇が皇位をお継ぎになったそうです。

安積香山の歌は元地方女官の歌、難波津の歌は帰化人の詠んだ歌。

この2つが、和歌のお手本と言われている、

これって、和歌がどういう性質のものなのか、

日本ってどういう国なのか、

色々と考えさせられますよね。

それはそうと、
この2つの和歌が木簡の裏表に記されている、
その木簡が、
奈良時代に聖武天皇が造営した
紫香楽宮(しがらきのみや)(742-745年)があった
滋賀県甲賀市の宮町遺跡から出土したんですよ。

新聞記事を紹介しているページがりましたので、ご紹介します↓

なんだか、すごい。

歴史を感じますね~


参考)

新潮日本古典集成〈新装版〉 古今和歌集』(奥村恆哉校注)

『平成新選百人一首』(宇野精一編/明成社)

心にとめておきたい”和歌”の数々※ko
和歌の歴史は、かれこれ二千年。 ”五七五七七”という僅か31文字の中に心を詠みこむ、 この表現形式が二千年間ずぅ~っと続いているなん...

スポンサーリンク
simplicity11
simplicity11

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする