[海軍さんの歴史教科書]6.海外発展と世界の情勢


ずいぶんお待たせいたしました。「5.建武中興と勤皇精神」を打ち終わりました。

打ちながら、すとん、すとん、とお話が体に染み渡ってきて、

こういう教科書で学んでいたら、私は歴史大好きっ子になっていたに違いないと今更ながら思うのでした。さて、ここでは、日宋貿易の辺りからです。

相変わらずスローペースで打ち込んでいくと思いますので、気長にお付き合いくださいね。

それにしても、支那の無礼さ加減は、今とちっとも変っていませんね。

歴史に学ぶことの大切さを改めて感じます。

6.海外発展と世界の情勢

(1)海外発展の気運

海外発展の気運

我が國古来の傳統たる国民の海外発展は平安中期になって一時大いに衰へたが、武士の勃興に伴って再び活況を呈しはじめ、源平二氏及び鎌倉幕府の奨励により日宋貿易が盛に行はれるやうになった。

この時、特に西国の武士は主として海洋を舞台に活躍し、かの元寇に際してはその撃攘(げきじょう)に大いに貢献した。

而してこの元寇の撃攘がわが国民の海外発展の気運をますます高めたことは著しいものがあった。

八幡船の活躍

即ち建武中興の後、天下が再び乱れて吉野時代となり、更に室町時代となるに随って、航海に馴れた九州・四国・瀬戸内海沿岸の士民はこの好機に乗じて軽舟を操り、船には八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の旗をかかげ、よく千里の波濤(はたう)を凌(しの)いで朝鮮・支那の沿岸に潑刺(はつらつ)たる貿易を開始した。

しかも国家の保護のないこれらの商人は、自衛のためには武力を行使することを余儀なくせられ、各地に威名を轟(とどろ)かしたので、支那・朝鮮に於いてはこれを倭寇と呼び、その船を八幡船(ははんせん?)と称して大いに恐れた。

當時すでに衰亡に瀕していた高麗は、このため遂に滅亡したとまでいはれている。

支那に於いては、元の滅後、これに代わって明が興ったが、明は国内を統一した勢に乗じて使を我が国に遣わし、當時九州に在(おは)しました征西将軍(せいせいしょうぐん)宮懐良(みやかねなが)親王に、我が邊海の士民の海外活躍を禁止せられることを請ふてきた。

親王はその国書が無礼極まるものであったのをせめて直ちにこれを却(しりぞ)けられ、毅然たる御態度を以て大いに我が国威を海外にお示しになった。

室町幕府の勘合貿易

然るに大義に暗い足利氏は、この明に極めて屈辱的な態度を取った。

即ち義満は明の態度が我が国に対して甚だ不遜であったにもかかわらず、自らの利益のためには国家の面目(めんぼく)をも顧みず、その要求を容れて我が士民の海外発展を禁止すると思に、自ら對明貿易を開始した。

而してその貿易は、幕府の公船の証として明から交付せられた勘合附(かんごうふ)を携帯する勘合船(かんごうせん)だけに貿易を許す、いわゆる勘合貿易であったため、我が商人の奔放な海外発展は一時大いに衰えた。

南方発展の先駆

しかし室町幕府の勢力が衰えた応仁の乱後は、我が士民の活躍は再び盛となった。

我が商戦の活動範囲は年とともに拡大せられ、南支沿岸から南方各地に及び、ヨーロッパ人渡来に先立って、南方における我が國民雄飛の先駆となった。

爾来秀吉の東亜政策によって、對明(たいみん)貿易が委縮した後も、南方貿易だけはますます盛大となり、やがて新来のヨーロッパ人と相伍して、世界貿易線上に大いに活躍することとなったのである。

国威の御宣揚

陛下與戦の策あらば、小邦亦禦敵(ぎょてき)の圖(と)あり。

又聞く、陛下股肱(ここう)の将を選び、竭力(けつりょく)の兵を起こして、来り臣が境を侵すと。

水澤の地、山海の洲、自ら其の備あり。豈に肯(あへ)て途に跪(ひざまず)いて之を奉ぜんや。

之(これ)に順(したが)うも未だ必ずしもそれ生きず、之に逆(さから)ふも未だ必ずしもそれ死せんや。

(「明史日本傳」懐良親王遺明御書)

(2)西力の東漸と世界の情勢

欧人の渡来とその影響

ヨーロッパ人の我が国への渡来は戦国時代の後半にはじまる。

我が國民はこの時初めてヨーロッパ人に接し、それらによって齎(もたら)された。

文物・宗教に触れて世界に対する視野を広めたが、延(ひ)いてはまたこれによって国家意識が呼び起こされ、海内統一の気運が促された。

東西交通の動機

東西両洋の交通は、さきに元が亜欧に跨(またが)る大国を建設したことによって、俄に活況を呈し始めたが、我が鎌倉末期にトルコが興って、東西交通の要地たるコンスタンチノーブルを占領したため、これまでの東西交通は遮断せらるることとなった。

西欧において直接東亜との海路通商を開く必要が、切実に感ぜられ始めたのはこの時からである。

新航路の開拓

これよりさき元の忽必烈汗に仕へたイタリヤ人マルコ=ポーロは帰国の後、「東方見聞録(とうほうけんぶんろく)」を著したが、その中で我が国をジパングの名の下に、金銀珠玉に富む國として紹介したため、ヨーロッパ人の間に俄然日本渡航の憧憬(どうけい)が高まり、遂に我が第103代後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の明應(めいおう)元年、イタリア人コロンブスが日本への渡航開拓の途中、偶然アメリカ大陸を発見した。

次いで明應7年(皇紀2158)、ポルトガル人バスコ=ダ=ガマはアフリカの南端を廻り、初めて印度に到達した。

葡西両国の東亜進出

爾来ポルトガルは主として東南アジア方面の経営に力を注ぎ、第104代 後柏原(ごかしわはら)天皇の永正(えいしょう)7年(皇紀2170)にはインドのゴアを攻略して印度侵略の根拠地とし、更にセイロン島を奪ひ、翌年(皇紀2171)にはマライ半島の要地マラッカを略取し、進んでモロッカ諸島を領有した。

かくてポルトガルは南洋諸島に於ける香料貿易を独占することとなったが、ますます東進を続けて商船を盛に支那に遣はし、第105代後奈良天皇(ごならてんのう)の弘治(こうち)3年(皇紀2217)明から澳門(まかお)を得るに及び、ここを根拠として盛んに印度・支那と貿易を行ひ始めた。

これに対しイスパニヤはコロンブスのアメリカ大陸発見以来、主として力をアメリカ大陸に注ぎ、永正16年(皇紀2179)、メキシコを征服してこれをノバ=イスパニヤ(濃毘數船 のびすせん)と命名し、またインカ帝国を滅ぼしてペルー地方の経営に當り、更に東亜に於いては先にポルトガル人マゼランが世界一周の途中発見したフィリピン諸島を占領して、第106代正親町天皇(おおぎまちてんのう)の元亀(げんき)2年(皇紀2231)、マニラをその首都と定め、東亜侵略の根拠地とすることとなった。

太平洋問題の発端

かくてイスパニア・ポルトガル両国は他のヨーロッパ諸国に魁(さきが)け、軍艦・商船を連ねて我が戦国時代の東亜を蝕(むしば)み、豊富を誇る東亜の資源は空しくその手に委ねられた。

この間、東亜諸国の中で独り目覚めていたのは我が國だけであったが、我が邊海の士民の勇猛果敢な南方進出も、これと競ふには背後の力を缺(か)き、後に我が国の生存に関する重大問題として、長く我が國民の上に重い桎梏(しっこく)となって残された太平洋問題と東亜、殊に支那問題とは、この時代に先づ最初の種子が蒔かれ始めたのである。

欧人の来航と鐵砲(てっぽう)の傳来(でんらい)

ヨーロッパ人が我が国に来朝したのは、後奈良天皇の天文(てんもん)12年(皇紀2203)、たまたま一艘(いっそう)のポルトガル商船が大隅(おおすみ)の種子島に漂着したのが最初である。

この時また我が国に初めて鉄砲が傳(つた)へられた。

これからポルトガル商船は盛に我が国に来航して、九州地方の諸大名と貿易を行ひ、イスパニヤも天正(てんしょう)年間には我が国に来航して貿易を開始した。

當時わが国民はその商人・商船を南蛮人・南蛮船と称し、新来の西欧文物に対してはよくこれを活用することに努め、殊に鉄砲の傳来に当たっては直ちに製法を学び、その製作に努めてここに火器使用の端緒が開かれた。

この鉄砲の伝来が、我が国の兵備及び戦術の上に与えた影響は頗(すこぶ)る大なるものがあった。

天主教の傳播(でんぱ)と海外渡航

かくてヨーロッパ人の渡来によってわが国民の海外認識は深められ海外発展の気運はますます促されることとなったが、ヨーロッパ人の渡来後直ちに我が国に傳えられたキリスト教は、続々来朝した宣教師の熱心な傳導によって、急速に全国に広まった。

當時この教は天主教(てんしゅきょう)、或は切支丹宗(きりしたんしう)と称せられ、天正年間には全国の信徒は凡そ十五萬を算へるようにさへなった。

而して熱心な信者となった大友・大村・有馬の九州三大名が、天正10年(皇紀2242)、遠くローマに派遣した伊藤満所(まんしょ)以下の少年使節は、萬里の波濤を越えて異境に堂々とその使命を果し、大いに我が國民の海外発展を鼓舞したが、これらが帰朝の際に齎(もたら)した地圖・地球儀・時計などの文物はまた国民の海外認識を大いに深めた。

(3)對外政策とその推移

新時代の海外発展

我が吉野時代から戦国時代にかけて次第に隆盛に赴(おもむ)いたわが国民の海外雄飛の気運は、ヨーロッパ人の来航以来、国民の世界知識の発展と国家的自覚の昂揚とに伴って著しく興隆(こうりゅう)し、我が商船は遠く南洋諸島及び東部印度支那半島にまで進出するようになった。

秀吉はこのやうな時代に国内を統一した。

而して當時の潑刺たる海外発展の気運は、遂に秀吉をして空前の雄圖(ゆうと)を決行せしめるとともに、国民の海外進出もまたその奨励と統制を得て空前の活況を呈することとなった。

秀吉の雄圖

即ちこれよりさき信長は、明及び高麗の滅後半島に興った朝鮮と通商貿易を企圖して不成功に終わったが、秀吉はその後を承け更に雄大な意図を以て明・朝鮮のみならず、遠く臺灣(たいわん)・呂宋(るそん)・印度に対してもことごとく我が国への入貢を促した。

このことは實に元寇以来の我が国民の海外発展の気運が、最高調に達したものであったということができる。

而して明・朝鮮がわが要求に応じなかったため、秀吉は遂に討明・征韓の大軍を起こしたが、その雄図は後陽成(ごようせい)天皇を北京に奉じ、秀吉自身は寧波(にんぽー)に於いて支那全国を統一しようとする實に雄大なものであった。

東邦発展の基礎

この秀吉の大陸経営の一大壮挙は我が水軍の不振と秀吉の薨去(こうきょ)とによって成功するまでには至らなかったが、大陸進出に一歩を印(いん)したことは、そのほかの対外政策とともに我が国民の海外発展の気運をますます旺盛ならしめた。

殊に秀吉の雄図が、我が国を盟主として東亜の諸国を一丸とする共栄圏を建設しようとする遠大な理想に基づくものであったことからして、秀吉がその後大いに南方諸国との通商貿易の振興を図り、国民の南方発展の基礎を築いたことは、当時の内外情勢に鑑(かんが)みて頗(すこぶ)る大きな収穫であった。

朱印船貿易の奨励

即ち秀吉は国民の海外奨励のため文禄元年(皇紀2252)、京都・堺・長崎の富商8人を選び、その商船に貿易公許の証たる朱印状を与へて外国貿易を特許する方法をとり、ここに我が商船は秀吉の保護を得て遠く呂宋・印度及び東部印度支那半島の沿岸にまで進出し、盛に活躍することとなった。

これを朱印船といひ、その活動は後に徳川家康の時代における朱印船貿易大発展の基礎となったものである。

家康の対外政策

(書きかけです)

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