橋本左内(はしもと さない)という名前を聞いたことがありますか?
橋本左内は、幕末に生き、
わずか26年という短い生涯を駆け抜けた武士です。
吉田松陰と同時代に生きた人で、
松陰と同じように「安政の大獄」で刑死しました。
「井伊大老が橋本左内を殺したという、その罪だけで、徳川氏は滅亡しても仕方がない」と言われたほどの人物でした。
さて、
彼は、数え年15歳の時に、『啓発録(けいはつろく)』を書きました。
ここに述べられた言葉は、100年以上たっても、今なお新鮮に、私たちの心を戒め、導いてくれます。
『啓発録』には、5つの大切なことについて書かれてあります。
- 稚心(ちしん)を去れ
- 気を振(ふる)う
- 志を立つ
- 学に勉(つと)む
- 交友を択(えら)ぶ
一つ一つ見てみましょう
1.稚心(ちしん)を去れ
稚心とは、幼なごころということにて、俗にいう童(わらび)しきことなり
果菜の類のいまだ熟せざるをも、稚という。
稚とは、すべて水臭きところありて、ものの熟して旨き味のなきを申すなり。
何によらず、稚ということを離れぬ間は、ものの成り揚がることなきなり。
人にありては、竹馬・たこ、打毬の遊びを好み、
あるいは、石を投げ虫を捕らうる楽しみ、
或いは、糖果、そざい、甘旨し食物を貪り、
怠惰安逸に耽り、父母の目を盗み、芸業職務を怠り、
或いは、父母によしかかる心を起こし、或いは父兄の厳にはばかりて、
とかく母の膝下に近づき隠るることを欲する類い、
皆、幼童の水臭き心より起こることにして、
幼童の間は強いて責むるに足らねども、
十三四にもなり、学問に志し候上にて、
この心、毛ほどにても残りこれある時は、
何事も上達致さず、とても天下の大豪傑となることは叶わぬものにて候。
2.気(き)を振(ふる)う(振気)
気とは、人に負けぬ心立てありて、
恥辱のことを無念に思う処より起こる意気張りの事なり。
振うとは、折角自分と心をとどめて、振い立て振い起し、
心のなまり油断せぬように致す義なり。
3.志を立つ(立志)
志とは、心のゆく所にして、我がこころの向い趣き候処をいう。
…
志を立つるとは、この心の向う所を急度相定め、
一度右の如く想い詰め候へば、弥々説にその向きを立て、
常々その心持を失わぬように持ちこたえ候事にて候。
4.学に勉む(勉学)
学とはならうと申すことにて、
総てよき人優れたる人の善き行い善き事業を
迹付けして習い参るをいう。
5.交友を択ぶ (択交友)
交友は吾が連・朋友の事にて、択ぶとはすぐり出す意なり。
吾が同門同里の人、同年配の人、吾と交わりくれ候えば、いずれも大切にすべし。
さりながら、その中に損友・益友あり候えば、則ち択ぶと申す事肝要なり。
損友は吾に得たる道を以て、その人の不正の事を矯め直し遣わすべし。
益友は、吾より親を求め事を詢り、常に兄弟の如くすべし。
世の中に益友ほどありがたく得難き者はなく候間、
一人にてもこれあらば、何分大切にすべし。
親友 矢嶋あきらの目に左内はどう映ったのかな?
橋本左内(はしもとさない)は、福井藩の儒学者 吉田東篁(よしだとうこう)に学び、その後江戸に出て、安積艮斎(あさかごんさい)の弟子である佐藤一斎(さとういっさい)に学んでいます。
左内と同じ年輩で若いころから一緒に学んできた矢嶋あきら(白辺に泉と書く)が、左内から『啓発録』の序文を頼まれ、本文を読んだ時にとてもビックリしたそうです。
どれほど驚いたのでしょう。
序文の最後に記されています。
矢嶋あきらの感じた橋本左内の真髄
その全文が忠孝節義の精神でうずまっており、
激しく奮い立つような気迫が迫ってくるようで、
初めて左内の進学の速さの原因が分かった。
あの頃自分たちは気概が盛り上がり、
激論することに快感を覚え、発散することで終わっていたのに、
左内はそうした気概を言葉や表情に出さず、
長い間じっと身体の中に蓄積しておいて、
一気に学問素養の上に発揮させたことを理解できた。
—
と。
序文を書いた矢嶋あきらも すごいですよね。
矢嶋あきらのみた橋本左内の様子
その1)15-16歳の頃のエピソード
序文の最初に書かれているのは、まだ15~16歳の頃の様子で、
「皆で激論を戦わし、悲憤慷慨(ひふんこうがい)して、時弊を憂うることがあったが、
左内は常にうつむいて行儀よく座り、自分の学才を表に出さず、黙って聞いていた」
そうです。
その2)19歳の頃のエピソード
橋本左内は、大阪の適塾(てきじゅく)の緒方洪庵(おがたこうあん)に蘭学や蘭方医学(らんぽういがく)を学んでいましたが、父の病気のため19歳で帰京した時の様子が述べられています。
「その態度は落ち着いていて考え深く、
何事にも精しく(くわしく)正確な学識を身に着けており、
その学識の根拠は明確であり、
この大阪進学の間に学問が非常な進歩を遂げていたことに驚かされた」
と。
実際に、左内は、暇を見ては乞食の診療をしたり、図書の購入で親しくなった書店の妻君の治療をしたりと、知識の習得だけでなく実学に努めています。
福井に帰ってからは、なんと、師匠である吉田東篁(よしだとうこう)の奥様の乳がんの手術もしています。
また、この(16~19歳)後に福井藩の学制や進行に大きな影響を与えた熊本の横井小桶とも知り合い、教えを受けています。
その3)20歳 江戸遊学の時のエピソード
3年後20歳で江戸に遊学したときの様子。
江戸では、和漢洋の大家 杉田成卿(すぎたせいけい)に、蘭学・医学・兵学を学び、
漢学の大家 塩谷宕陰(しおやこういん)に漢学を学んでいます。
この時の矢嶋あきらの感想は
「左内の学問は一段と進み、
それも実用に役立つことを主眼としていて、
経世済民の才識は実際に運用できるほどで、
それは江戸の有名人も褒めたたえるほどであった」
というものです。
昔の人は、すごかった、なんていうのも恥ずかしい、、
15歳で書いたこの橋本左内の啓発録は、後世に語り継がれ、
100年後の私たちにとっても、身が引き締まる思いのする教えですよね。
「幼心を捨てないと、何事も成し遂げることなどできやしない」
そう言い聞かせながら、日々過ごしたいものですね。
『啓発録』を渡邉五郎三郎先生の講義録で学ぼう↓
『啓発録』の序文にみる橋本左内↓
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