『和の国の明日を造る』という番組で、元ウクライナ大使の馬淵睦夫さんと湯島天満宮権禰宜で神道学博士の小野善一郎さんの対談がなされていました。
何度も停めたり、巻き戻したりして、興味深く拝聴しました。
古事記というものの理解が、増したように思います。
小野先生、すごく早口で、あまり知識のない私には、難しいところも多々。
でも、面白かったです。
メモ程度に書き起こしたものを、下に貼っておきますね。
(番組へのリンクを張っていたのですが、動画が削除されたようです。残念。)
備忘用にメモしたものです
古事記序文
文字化ができないということが、
命がこういうものなのだ、ということは、文字化ができない。
感じるだけ。
だけど、伝えるためには、外に発するためには、言葉にしなければならない。
だから、ところどころ矛盾が出てくる。
あめつち初めの時
神様が先ではなく、あめ土が先。
大宇宙が最初からある。
はじめから永遠の命がある。
これが、神道。
滅びない命が最初からある。滅びない。
この命が私たちの中にもある。
対して、
ユダヤキリスト教の神様は、何もないところにつくられたもの。
神があめつちを作った。人間は、罪びとで生まれてきた。
この世の中は、創造神が作ったものなのか、はじめから存在していたものなのか、その違いが分かるだけでも、宗教に関する理解が根本的に高まる。
大和言葉でいうところの神さまは、先祖のこと。
最初から命がある、これは、滅ばない。
大地も草も木も山も水も、同じ命。
綺麗な御霊をもって生まれてきた。
しかし、
私たちの中に
傲慢な心 不安な心
ねたむ心、嫉妬の心、
もともとは天土にない。
どうしても離れる心が出てくる。
その離れる心を祓う、というのが神道。
具体的なご神明として
あめのみなかぬしの神様。あめつちの本源にある神様。
それが、現象界に現れたのが、
アマテラス大御神。
私たちの中にある。
「霊魂不滅」の信仰。命は絶対滅びない。
神祭りというのは、神さまの実在。
神様は見える。
「命は滅びない」。この一点がすべて。
祭りは神様との出会い。
神様と同じ命を頂いているということを、改めて認識する場ともいえる。
伊勢神宮の神嘗祭(伊勢神宮の中で一番大切) 託宣
祓い
伊勢神宮の一番最初の文書
一冠の命とひとつとなること。
宮中は、新嘗祭。
心神(自分の心の中の神様。伊勢神宮では、天照大神、あめのみなかぬしの神) 悪口を言うな、傲慢な心、比べる心、不安な心、妬む心を出すな。そして心神を守れ。
神さまの前にひれ伏すように祈る。全てを放念する。
そして、最初からある命と一つになることが、祈祷。
神さまのご加護を得るためには
正直(せいちょく)→最初からある命のこと。まっすぐなこころ。
小さな心が、神社だよ。(心神)
「正直=祈祷=心神」最初から、自分の中にある。
唯物論的な見方ではわからない。
一神教→終末論
神道→ 初めがないから、終わりがない。
天壌無窮の神勅(37.31)
ニニギノミコトが下る時、天照大神様からいただく。
あめつちと一緒なら、ずぅ~っと繫栄していくよというのが 天壌無窮の神勅
山は見えるのに、山の背後にある命は見えない。自分の命が見えないから。それが、戦後日本。
神さまも、絶対じゃない。時に離れる。
ことごころに支配される。それを祓って、
祓って、初めからの命と一つになる。
「一貫の命」永遠に栄える
統治する人も、離れた心を祓って、初めからの命と一つになって、
治められる側も、おおみ心と一つとなる。親子。(41)
二元的な統治ではなく、「纏め」
あまつひつぎ–高天原の命のこと
神勅の実現のために、陛下はご努力なさっている。
ご委託された神勅の実現。高天原はここにあるが、私たちが離れている。
天照大神は高天原で、新嘗祭を行われている。57.15
まつられる神様は、じつはまつる神様でもある
天照大神も稲作をなさっていた。
畑の畔を壊すのが罪
52.46 大祓い言葉
自我の心の奥にある実在している神様(心神)を監督する。
離れた心を祓って監督すること。
。。。
。。
本当に箇条書きのメモ程度でスミマセン。
自分の備忘用でしかないですね(^-^;
小野先生の『古事記のこころ』、以前買って読んでいたのを思い出しました。
読み返してみようっと。