[海軍さんの歴史教科書]5.建武中興と勤皇精神


前の第4章「武士の勃興と元寇の撃攘」までは、桓武天皇の平安奠都以来国が安定し産業も栄え、独自の文化も花開いた後、藤原氏が台頭してきて国が乱れ、国防を疎かにしていたこともあり、外寇の危機を招くに至ったことについて学びました。

平安末期に武士が台頭、源平二氏が対立、平氏が滅び、鎌倉幕府が開かれます。武士道の精神も、この時代に現れ武士最高の道徳として発達しました。

二度の蒙古軍の襲来、元寇という未曾有の国難に、亀山上皇は祈り、執権北条時宗は身を捨てて難局に対峙し、国民心を一つに戦い、神の助けである神風が吹いて蒙古軍を打ち破ることができました。

これを機に、日本は神國であるという認識が人々の心に沸き上がっていったそうです。

さて、ここからは、建武中興についてです。

建武中興(けんむちゅうこう)がなんなのか、私にはわからないので、どんなことが書いてあるのか、楽しみです。

5.建武中興と勤皇精神

(1)中興(ちゅうこう)の聖業(せいぎょう)

武家政治と皇政復古

源頼朝の鎌倉幕府開設以来の武家政治は、平安末期の社会の混乱を武力をもって鎮め、國内に新たな秩序を齎(もたら)して民心を安定せしめるのに多大の功があった。

しかし武家政治そのものは、我が國體の本義に鑑みて、あくまで許すことのできない政治組織である。

されば朝廷におかせられては、しばしば皇政復古の御計画をお立てになったが機未だ熟せず、殊に承久の変の如き後鳥羽・順徳の二上皇が、時の執権北条義時の手によりそれぞれ遠島に遷され給ふ御悲運を招いたことは、誠に畏き極みであった。

北條氏の専横

しかも變後北上氏はますます権勢を擅(ほしいまま)にして豪も改める色なく、殊に元寇の後、幕府の財政は著しく困難となったにもかかはらず、執権北條高時(たかとき)は遊楽をこととして政治を顧みなかったので、人心は次第に北條氏を離れて行った。

討幕の御計畫(けいかく)

時に第96代後醍醐天皇は、かねて皇政復古を実現して延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)の聖代に復し、肇国精神に基づいて政治の刷新を図ろうとの御志を懐(いただ)かせ給うていたが、北條氏の専横がいよいよ募るに及び、遂に北條氏討伐の御計畫をお立てになった。

勤皇軍の興起

高時は大いに驚き、元弘(げんこう)元年(皇紀1991)、大兵を京都に向かはせ、翌2年(皇紀1992)、畏れ多くも天皇を隠岐に遷し奉ったが、この時既に楠木正成は詔(みことのり)を奉じて兵を河内に挙げ、金剛山の千早城(ちはやじょう)に寡兵(かへい)よく賊の大軍を苦しめて大義を天下に唱え、護良(もりなが)親王もまた吉野に據(よ)って諸国に義兵を募られたから、肥後の菊池武時をはじめ勤皇の諸侯が各地に続々と義軍を起こした。

ここにおいて元弘3年(皇紀1993)、天皇は名和長年(なわながとし)に迎へられ給うて沖から伯耆船山に行幸あらせられた。

北條氏の滅亡

北條高時は驚いて足利高氏(あしかがたかうじ)を遣わし、船上山を攻めさせたが、高氏は俄(にわか)に官軍に降って京都を攻めこれを回復した。

この時、新田義貞(にったよしさだ)もまた義兵を起こし、進んで鎌倉に攻め入ったため、高時は一族とともに自害し、北條氏はここに滅んだ。

ここに於いて後醍醐天皇は京都に還幸あらせられ、直ちに新政の樹立に着手し給うたのである。

建武中興の大業

即ち天皇は先ず摂関政治(せっかんせいじ)を廃して我が國體(こくたい)本来の姿たる天皇親政の實を擧(あ)げ給ひ、中央の政治機関を整備してこれに公卿(くぎょう)・武士の人材を當(あ)て、別に護良親王を征夷大将軍に任じて軍事を統べし給うた。

また地方には尊氏(たかうじ)・義貞・正成・長年以下の有功の公卿・武士を守護・國司(こくし)に任じて行政に當らせ、特に北畠顕家(きたはたけあきいえ)には皇子義良親王(のりながしんのう)を奉じて陸奥を治めさせ、足利直義(あしかがただよし)に皇子成良親王(なりながしんのう)を奉じて関東を治めしめ給うた。

かくて従来の政治上の幾多の弊害が除かれ、萬機親裁の統一政治に復帰して、肇国精神(ちょうこくせいしん)に基づく国政改革の實が挙るに及び、年号を改めて建武(けんむ)と称せられた。さればこの大業を建武中興と申し上げる。

中興の御親政

ご在位の間、内には三綱五當の儀を正しくして、外には萬機百司の政怠り給はず、延喜天暦(えんぎてんりゃく)の跡を追はれしかば、四海風を望みて悦び、萬民徳に帰して楽しむ。(中略)誠に天に受けたる聖主、地に奉ぜる名君なりと、その徳を称し、その化に誇らぬ者は無かりけり。(「太平記」)

古興廃を改めて、今の例は昔の新儀なり。朕が新儀は未来の先例たるべしとして、新たなる勅裁漸々(ようよう)聞こえけり。(「梅松論」)

(2)忠臣の遺烈

建武中興の挫折

かくて新政はその緒につくこととなったが、ともに並んで國政を翼賛し奉るべき公卿と武士の間がとかく圓満(えんまん)を缺(か)いたことは、世情に暗い公卿の多かったこととともに甚だしく政務を渋滞せしめた。

そのうえ、國民の中には恩賞に対して不平を唱へるものが極めて多く、就中久しく武家政治になれた地方武士の中には、幕府の再興を願ふものさへ生じた。

要するに國民の中には、いまだ我が國体を解せず、大義に暗いものが多く、これを巧みに利用した尊氏の謀反によって、遂に中興の大業は惜しくも挫折することを余儀なくさせられたのである。

尊氏の謀反と正成の戦死

即ち足利尊氏は源氏の一族であったためにかねて幕府再興の野心を抱いていたが、まだ新政の基礎が確立しない時機に乗じ、私恩を施して巧みに不平武士をてなづけ、早くも建武二年(皇紀1995年)、鎌倉に於いて叛旗(はんき)を飜(ひるがえ)した。

天皇は勤王の諸将に命じて直ちにこれを討たしめられ、陸奥から義良親王を奉じて西上した北畠顯家の奮戦によって、一度は尊氏を大いに破りこれを九州に走らしめたが、やがて九州に於いて勢力を恢復した尊氏は直義とともに大軍を率ゐ、海陸相並んで東上して来た。

正成は義貞とともにこれを兵庫に防いだが、戦利あらず、義貞は敗れて京都に退き、正成は力戦奮闘の後、七生報國を期して弟正季(まさすえ)とともに湊川(みなとがわ)に自刃(じじん)した。

時に延元(えんげん)元年(皇紀1996)5月25日のことであった。

吉野御還幸

ここに於て尊氏は京都に攻め入り、その後、長年も戦死して官軍の勢は漸く振はず、天皇は畏くも遂に吉野に還幸あらせられることとなった。

かくて朝廷は後醍醐天皇から第97代後村山(こむらかみ)天皇・第98代長慶(ちょうけい)天皇、第99代後龜山(ごかめやま)天皇御四代の間は多く吉野に在(おは)しまして、天皇御親政を期して足利氏討伐を図り給ひ、ここに崇高な我が國體發揚(こくたいはつよう)の輝かしい御事蹟と御苦難に満ちた吉野時代五十余餘年の歴史が、我が國史の上に燦として輝くこととなったのである。

忠臣の遺烈

この間、後醍醐天皇の緒皇子はよく中興の聖旨を體(たい)し給ひ、貴い御身を以て義戦に挺身遊ばされた。

また幾多の勤王の諸将は中興の大業のためによくその忠誠を捧げ奉り、しかもその多くは子孫相傳へてその遺志を継ぎ、いかなる苦境に陥るとも毫(ごう)も節義を變(へん)ぜず、皇事に殉(じゅん)じた。

この時、北畠親房(きたはたけちかふさ)が常陸(ひたち)にあって陣中に執筆した神皇正統記(じんのうしょうとうき)は、國體の本義を説いて憂國の文字に満ちた、正に勤皇精神の結晶であった。

而(しか)して これらの勤皇諸将(きんのうしょしょう)の忠勇義烈の精神と事蹟は、後人をして奮起せしめねばやまない感銘を残し、就中江戸幕末に至っては勤皇の志士を鼓舞して、明治維新の大業を促進し奉る有力な因由(いんゆう)となった。

御龜山(ごかめやま)天皇の京都還幸

足利氏は尊氏の死後義詮(よしあきら)を経て義満(よしみつ)の代となったが、元中9年(皇紀2052)、義満は後亀山天皇に京都還幸のことを請い奉った。

天皇は多年に亙(わた)る戦乱のための國民の苦しみを憐(あはれ)み給ひ、その奏請(そうせい)を許して京都に還幸あらせられ、神器(じんき)を第百代 後小松(ここまつ)天皇に傳え給うた。

かくて多年の戦乱は静まったが、遂に幕府政治の再興を見ることとなった。

七生報国の盡忠

正成座上に居つつ舎弟の正季に向ひて、抑最後の一念に依りて、善悪の生を引くといへり、九界(きゅうかい)の間に何か御邊(ごへん)の願なると問ひければ、正季からからと打笑ひて、七生まで只同じ人間に生まれて、朝敵を滅さばやとこそ存じ候へと申しければ、正成よに嬉しげなる気色にて、罪業(ざいごう)深き悪念なれども、我も箇様に思ふなり、いざさらば同じく生を替へて此の本懐を達せんと契(ちぎ)りて、兄弟ともに刺し違へて、同じ枕に臥しにけり。(「太平記」)

憂国勤皇の文字

天地も昔にかはらず、日月も光を改めず。況(いわん)や三種の神器世に現存し給へり。極り有るべからざるは我が國を傳ふる寶祚(ほうそ)也。仰ぎて貴び奉るべきは日嗣(ひつぎ)を受け給ふすべらぎになんおはします。

凡そ王土にはらまれて、忠をいたし命を捨つるは人臣の道なり。必ずこれを高名と思ふべきにあらず。 (北畠親房「神皇正統記」きたはたけちかふさ「じんのうしょうとうき」 )

註)寶祚(ほうそ)–天子の位

日嗣(ひつぎ)–天皇の位を敬って言う言葉

(3)時代の推移と尊皇精神の発現

幕府の失権と戦国の世相

建武中興(けんむちゅうこう)の大業に叛(そむ)き奉った足利尊氏は、その野心を遂げるためしきりに私恩を施して武士を手なづけ、やがて義満に至り、京都室町に幕府を開いて武家政治を再興した。しかし大義名分を紊(みだ)した足利氏に、長く幕府を保ちえる實力(じつりょく)があるはずはなく、地方の諸将はこれに乗じて次第に勢力を貯へ、四代将軍義教(よしのり)の頃からは幕府の命令を意としないものさへ生じ、やがて應仁(おうにん)の乱後は幕府の勢力も全く衰へ、群雄は四方に起こって攻略をこととし、兵乱が相次いで起こって、ここに百餘年に亙るいはゆる戰國の世相が現出した。

皇室の御式微

この間、皇室の御料地(ごりょうち)は、打続く戦乱のために多く有名無實となり、幕府もこれに對し奉って御費用を献上する資力がなく、内裏(だいり)の御築地(おんついぢ)は破れ、日々の供御(くご)にもことかかせられ、申すも畏れ多いことではあるが、御即位の御大禮、御大葬の御儀式さへ長年に亙って滞(とどこほ)らせ給ふという御有様であった。

仁慈(じんじ)の御聖徳

しかしこのやうな皇室の御式微にもかかはらず、我が國體の尊厳は毫も損ぜられることなく、御歴代の天皇は常に仁慈愛民の大御心を蒼生の上に垂れさせ給ひ、いつの世にもかはらせ給はぬ御聖徳の数々は、拝するだに感激措(お)く能はざるところである。

註)蒼生(そうせい)–多くの人々、人民

國民の忠誠

されば御歴代の御仁慈を拝し、国民の間に自自ずから(おの)ずから深い勤皇思想が起こされたことは、我が国民精神本然(ほんねん)の発露であった。

諸国の豪族の中には聖恩に感激して尊皇の至誠を致すものが相次いで現れた。

即ち大内義隆(おおうちよしたか)・毛利元就(もうりもとなり)・織田信秀(おだのぶひで)・今川義元(いまがわよしもと)等はしばしば御即位・御大葬、或いは皇大神宮や皇居御修理の御費用を献じ奉った。

また公卿の中には地方を回って諸豪族に勤皇を説くものが現れ、町人の中にさへ、皇居を修理し奉り供御(くご)を奉って、忠誠を盡くすものが現れた。

供御(くご)–天皇が召し上がるもの

尊皇精神と海内一統

かくて皇室の御仁慈(ごじんじ)は深く国民の間に照り徹(とほ)り、戦乱をこととする諸豪族の間には、天皇を奉じて天下を統一し、宸襟を安んじ奉らうと志すものが現われはじめ、遂に勤皇敬神の志の極めて熱い織田信長及び豊臣秀吉の手によって、はじめて海内一(かいないいっとう)統の事業が実現せられたことは、誠に我が國體の然らしめるところであり、このやうな戰國の世相に於いてすら尊皇精神の発現を見たことは、正に我が國體の世界に冠絶(かんぜつ)する所以(ゆえん)である。

※冠絶–比較するものがないほど優れていること

御歴代の御仁慈

治めしる我が世いかにと浪風の八十島(やそしま)かけてゆく心かな(後柏原天皇 ごかしわばらてんのう)

愚なる身は忘れても 大方の世の憂きをさへ また嘆くかな(後土御門天皇 ごつちみかどてんのう)

朕民の父母として徳覆ふ能はず 甚だ自ら痛む (後奈良天皇宸筆寫經(写経)奥書)


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