[海軍さんの歴史教科書]8.幕末内外の情勢


前章の末尾にある本居宣長の『直毘霊(なほびのみたま)』という本は、『古事記伝』の序に当るものだそうです。

私なりに訳すと、

「舶来文化を愛でるのもいいけれど、日本にはイザナギノミコトやイザナミノミコトがお始めになり天照大神(アマテラスオオミカミ)に引き継がれお伝えになられた尊い道があります。これを神の道と言います。

昔は天皇の大御心を自分の心として、穏やかに楽しく生きてきました。今海外から来た教をありがたがって行う必要はないでしょう。」

日本古来の文化を見直し大切にしましょうということですね。

それで、本居宣長は『古事記』を編纂したのかぁ、、と、

すごいなぁ。。

さて、この章では、いよいよ幕末の激動の時代について学びます。

わくわくしますね。

8.幕末内外の情勢

(1)海外情勢の緊迫と海防攘夷論

幕末内外情勢の概観

江戸幕府の政治は将軍家齊(いえなり)の頃には既に積弊が激しくなり、武士も質実剛健の気風を失って奢侈遊惰(しゃしゆうだ)に流れ、幕府の衰亡は既に著しいものがあった。

この時鎖国による江戸時代に百六十五年の泰平の夢から幕末の我が国民を覚醒せしめたものは、外ならぬ欧米諸国の東亜侵寇(しんこう)の魔手であったが、このことは時局をますます紛糾(ふんきゅう)せしめて幕府の衰滅を早からしめるとともに、期せずして國民上下の緊張を促し、やがてそれが尊王攘夷運動となって天下に盛行し、遂に明治維新を促進し奉ったのが、幕末に於ける我が内外の情勢である。

世界情勢の推移

寛永の鎖国以来約百五十年の間に世界の形勢は大いに変化した。

かつて世界の制海権を握って東亜侵略を擅(ほしいまま)にしたイスパニヤ・ポルトガル両国は既に昔日(せきじつ)の面影なく、これに代わって江戸時代の初期、諸方に廣大な植民地を占めて一時は航海・貿易の覇権を握ったオランダも、やがて商利に走って植民地経営に失敗するや、これに代わって東亜に猛威を振ひ始めたのがイギリスである。

イギリスの太平洋経略

イギリスは江戸中期には既にインドの大半を領有して東印度会社をしてこれを統治せしめてゐたが、我が桃園天皇の宝暦7年(皇紀2417)、ムガール帝国を滅してこれを直轄(ちょっかつ)してからは、シンガポールを固め、マラッカを奪って東亜侵略の根拠地たらしめるとともに、支那に迫って商権の拡張を図り、次第にその侵略に狂奔(きょうほん)しつつあった。

イギリスが阿片(あへん)戦争の結果、支那から香港を奪って支那営の據點(拠点)としたのは、實に大120代仁孝(にんこう)天皇の天保13年(皇紀2502)のことであった。

これよりさきイギリスは 第117代後櫻町(ごさくらまち)天皇の御代、ジェームス=クックがオーストラリヤ・ニュージーランドを探検して以来、大いにその柘植(たくしょく)に努め、かくてイギリスの東亜侵略の魔手は次第に我が国に迫らうとする形勢にあった。

註)經略(経略)–四方を攻め取り天下を支配統治すること

アメリカの勃興

アメリカは後桃園天皇の安永(あんえい)5年(2436)にイギリスから独立した時、これに加盟したのは大西洋岸の僅か十三州だけであったが、爾来次第に英・佛・西・墨(メキシコ)諸国の領土を併呑(へいどん)して仁孝天皇の弘化(こうか)3年(2506)、早くもその領土は太平洋岸に達した。

これからアメリカは次第に太平洋に利害関係を持つやうになり、やがて北太平洋の捕鯨(ほげい)事業と支那の交通のため、我が近海に出没しはじめた。

フランスの東亜侵略

またフランスは、これよりさき印度に於いてイギリスと領土獲得を争って敗れたため、これに代はる植民地を求めて先づ印度支那半島に着目し、我が天明(てんめい)の頃から安南の内乱に干渉して次第にその勢力を半島に伸張しはじめたが、次いで支那を経て我が琉球にその魔手を伸し、弘化年間からは軍隊を屢々(しばしば)琉球に来航せしめはじめた。

フランスはやがて安南を保護国としたが、清佛戦役に勝って印度支那を占領したのは、實に我が明治18年(皇紀2545)のことであり、イギリスは対抗上、その翌年になってビルマを併合した。

ロシアの東亜進出

また、ロシヤはその名が世界市場に現れたのは、我が室町時代に蒙古の束縛から離れて独立した時にはじまるが、大陸の真只中に建国して港湾を持たないこの国の歴史は、実に港湾獲得のための努力と侵略の歴史であった。

就中東方への進出は我が正親町天皇の御代、はじめてシベリヤ経営に着手した時にはじまり、やがて江戸時代初期にはオホーツク海からカムチャッカ半島を経由して遂に太平洋に達したが、天和年間ペートル大帝が起つや、清とネルチンスク条約を結んで外興安嶺(がいこうあんれい)以北を領有し、更に嘉永年間支那に長髪族の乱、ついで英仏連合軍の支那侵入が起こるや、その隙に乗じて今の沿海州全部を占有し、更に軟化して満州に迫ろうとする形勢を示し始めた。

またこれよりさき我が宝暦年間女帝カザリン二世が即位するや、女帝は東亜の経営に力を注ぎ、イルクーツクに日本語学校を立てて我が国を窺(うかが)ひ、やがて艦船を千島・樺太近海に出してこれを荒掠(こうりゃく)せしめるやうになり、ここにロシヤの東亜進出は直接我が国を脅かし始めた。

露人の北邊荒掠(ほくへんこうりゃく)

かくて植民地の獲得と経営に狂奔して次第に東亜に勢力を伸ばしはじめた欧米諸国の侵略の魔手は、先づ北邊に対するロシヤの侵害となって現はれた。

林子平(はやししへい)がこのやうな海外情勢の緊迫を鑑(かんが)みて、我が国の海国である所以を明らかにし、海防の急務を説いたのはこの時のことであるが、世界情勢に暗い幕府は頑迷(がんめい)にもこの卓見を壓(圧)迫した。

ところが程なくロシヤの使節ラックスマン・レザノフが相次いで我が国に来航し、通商を求めるに及んで幕府は初めて海防の必要を悟り、急に北辺防備の対策を講じたが、幕府に通商を拒絶せられたロシヤの我が北辺荒掠はますます頻繁(ひんぱん)となっていった。

最上徳内(もがみとくない)・近藤重蔵(こんどうちょうぞう)などが千島を巡視し、間宮林蔵(まみやりんぞう)が樺太を探検して黒竜江(こくりゅうこう)沿岸にまで調査を進めたのは、実にこの当時のことであった。

英艦の狼藉

次いで外寇(がいこう)は英艦の狼藉(ろうぜき)となって現れた。

当時ヨーロッパに於いてはナポレオンが大陸諸国を席巻(せっけん)し、イギリスはフランスと交戦中であったが、オランダがフランスの属領となるに及んで英艦はオランダ船舶を求めて我が近海に出没し、文化5年(2468)には長崎港内に闖入(ちんにゅう)して狼藉を敢えてするやうな事件さへ起った。

尊皇攘夷論の勃興

その後も英船はしばしば近海に現れ、頻(しき)りに掠奪を行ふに及び海防攘夷(かいぼうじょうい)の論は猛然と起った。

就中水戸学に培はれた水戸藩からは藤田幽谷(ふじたゆうこく)をはじめ、曾澤正志齋(あいざわせいしさい)・藤田東湖(ふじたとうこ)等が出て、我が金甌無缺(きんおうむけつ)の國體を擁護し奉らうとする憂国勤皇の熱誠を以て、大いに尊皇攘夷の論を鼓吹(こすい)し国民を覚醒せしめるとともに、幕府の政策にも大きな刺戟を與(あた)へた。

ここに於いて文政(ぶんせい)8年(2485)、幕府は遂に外国船打払令(がいこくせんうちはらいれい)を発するとともに、海防の強化を企て軍備の充実を図り始めたが、諸藩に於いても水戸藩主徳川斉昭(なりあき)をはじめとして、時勢に目覚めて攘夷の指揮を鼓舞するとともに、海防の充実に努めるものも少なくなかった。

幕府対外政策の動揺

しかし軍備の充実は一朝には成らず、殊に幕府の財政は既に窮乏して海防の施設も容易に進捗せず、たまたま阿片戦争が勃発して清が英軍に破られるに及んで幕府の対外方針は動揺を来たし、天保13年(2502)には外国船打払令を撤回した。

海防論の展開

阿片戦争に敗れた清はイギリスと南京条約を結んで香港を割譲するとともに、廣東(かんとん)その他の五港を開いて講和(こうわ)したが、これは欧米諸国に東亜侵略の據點(きょてん)を与へるものであった。

さればこのことは我が識者の海外認識を大いに深め、天保の末に高島秋帆(たかしましゅうはん)・佐久間象山(さくましょうざん)等は軍備の不備を指摘し、清の配線に鑑みて海防を厳ならしめるため多数の洋式火器・戦艦を建造し、水軍を養成することの急務を大いに力説し、やがて弘化(こうか)・嘉永(かえい)に至るや、多くの憂国の志士が攘夷・開国の華々しい論策を展開するやうになった。

尊皇攘夷の鼓吹

神州は太陽の出づる所、元気の始まる所、天日の嗣、世々宸極(しんきょく)を御し、終古易(かは)らず、固(まこと)に大地の元首にして、万国の綱紀なり。

誠に宜しく宇内(うだい)を照臨(しょうりん)し、皇化の曁(及)ぶ所、遠邇(えんじ)有る無かるべし。

今、西荒蠻夷(せいこうばんい)、脛足(けいそく)の賤(せん)を以て、四海に奔走し、諸国を蹂躙し、眇視跛履(びょうしはり)、敢て上國を凌駕(りょうが)せんと欲す。

何ぞそれ驕(けふ)なるや。

(会澤正志齋「新論」)

宸極(しんきょく)--天子の位

照臨(しょうりん)–神仏が人々を見守ること

眇視跛履(びょうしはり)

跛-‐びっこ

<打ち込み人註> 

会澤正志齋の『新論』1825年刊行。水戸学。

しかし、藩主に公刊を差し止められ1830年(天保元年)に憂国の志士たちの手によって筆写され広まった。1857年刊行。以下の構成。
【上】國體(上)形勢(世界の情勢を論じたもの)
國體(中)虜情(欧米諸国が日本をどうみていたかを論じたもの)
國體(下)
【下】守禦(シュギョ)防衛・国防、 長計(チョウケイ)・国のおおもおと 教育)

戦後GHQによって焚書となったそうです。

知らない漢字が沢山出てきます。

漸くわかりました。長年の疑問が。。

私が義務教育だったころ当用漢字というものがありました。なぜか簡単な漢字だけ。

どうして簡単な漢字しか覚えてはいけないの?と、大人に聞いても誰も答えてはくれませんでした。

こういうことですね。

つまり、水戸学のような日本人にとっての良書は、戦後生まれの私たちに読まれては困ったわけね。戦前と戦後を切断。文化破壊の一旦だったわけよ。

だから、打ち込みたくても漢字登録されていないし、調べても読み方から調べなければならない。これでは、戦前の本を読めない。

悔しい。。( ;∀;)

尊皇攘夷の鼓吹

堂々たる神州天日の嗣、世々神器(じんき)を奉じて万邦に君臨す。

上下内外の分、猶天地の易(か)ふべからざるが如し。

然れば即ち尊皇攘夷は實に志士仁人忠を盡し、国に報ずるの大義なり。

(藤田東湖「弘道館記述義」)

(2)幕府政治の破綻

一大危機の現出

江戸幕府開設以来既に二百四十餘年を経て幕府の勢力も漸く衰へ、外には欧米諸国の来寇がいよいよ急を告げ、内には開港・鎖国の議論が天下に沸騰してここに我が國の一大危機が現出した時、畏くもこの難局に立たせ給うたのは第121代孝明(こうめい)天皇であらせられる。

孝明天皇の御聖徳

天皇は極めて英明剛毅(えいめいごうき)にわたらせられ、この難局打開のため日夜宸襟(しんきん)を悩まし給う田が、遂に勅を幕府に下してますます国防を厳にし、重大なる政務は必ず勅裁を仰がしめられた。

ここに早くも朝威更張(こうちょう)の気運が現れたのである。

しかも時局の進運に伴ってますます国家危急の度が加はるに及び、天皇はしばしば内治外交に関する幕府の措置を督励(とくれい)遊ばされ、時局の打開をお図りになった。

更張-‐緩んだ糸を張りなおすこと

尊皇攘夷思想の勃興

かくて国家の一大危機に際して、天皇の廣大無邊(広大無辺 こうだいむへん)の御聖徳を拝し、国民の国家的自覚はいよいよ高まり勤皇の思想はますます旺盛となり、国民はみな我が國の本然の姿に顧みて、皇室を奉じ挙国一致して外寇に当らうとし、尊皇攘夷の国民精神は大いに昂揚することとなったのである。

ペリーの来朝

当時アメリカに於いては北太平洋における捕鯨事業が盛となったため、米船の覇水・食料を求めて我が港湾を窺うものが頻にましたが、遂に嘉永6年(2512)6月、アメリカ水師提督ペリーは軍艦を率ゐて浦賀に来航し、強硬に和親(わしん)通商を要求した。

幕府は狼狽してその処置に迷ひ、先づ回答を抑年に延期するとともにこれを朝廷に奏上(そうじょう)し、また諸侯に意見を求めたが、このことは幕府の威信を大いに失墜せしめるとともに、国内に議論が沸騰しはじめる端緒が開かれた。

和親条約の締結

ところがその翌年にはロシヤの使節プチャーチンが同じく軍艦を率いて長崎に来航し、修好と千島・樺太の境界決定とを求め、更に安政元年(2514)正月にはペリーが約によってふたたび来朝し、神奈川沖に於いて確答を求めたので、幕府は遂に鎖国政策を捨ててアメリカと和親条約を結び、下田・函館の二港を開き、薪水・食料の支給及び漂流民の相互救助を約した。

これを神奈川条約といふ。

ついで英・露・蘭の三国ともほぼ同様の条約を結び、ロシヤとの国境協定は千島を分有、樺太を共有と定めた。

通商条約の締結

かくて和親条約の規約に基づき、やがてアメリカ総領事ハリスが来朝して幕府に通商条約を求めたので、幕府も漸く開国の方針に傾いて安政4年(2517)、アメリカとの間に通商条約を議定し、その調印に先立ち老中 堀田正睦(ほったまさよし)を上京せしめて勅許を仰がせたが、朝議は開国を非とし、諸藩の間にも攘夷の気勢が強く、勅許を得ることは困難であった。

進退に窮した幕府は井伊直弼(いいなおすけ)を大老にあげてこの難局に当たらしめたが、時に英佛二国は清と戦って大勝し、余威を以て我が国に通商を迫るという風説があり、ハリスはこの形勢を利用して幕府に条約の調印を迫ったので、直弼は遂に勅許を待たずに条約を調印し、次いで蘭・露・英・沸などの諸国ともほぼ同様の条約を結んだ。

これを安政の假(かり)条約といふ。

世論の沸騰

然るに条約の内容は関税に自主権なく、治外法権を許した頗(すこぶ)る不利なものであり、しかも直弼がこのやうな不利な条約を勅許を待たずに結んだことは大いに世論を沸騰せしめ、朝廷は幕府の専断を憤(いきどほ)らせ給ひ、諸侯もまた幕府の処置を責めてここに尊皇攘夷の矛先はひとしく直弼の専断に集中した。

安政の大獄

ここに於いて直弼は幕府の政治を非難する公卿・諸侯・藩士及び吉田松陰・橋本左内(はしもとさない)・梅田雲濱(うめだうんびん)・賴三樹三郎(らいみきさぶろう)等の志士数十人を厳罰に処して、世論の沸騰を弾圧しようとした。

これを安政の大獄といふ。

しかしこのやうな暴挙の結果はますます朝廷の御信頼を失ひ、有力な諸藩の離反を大にしたのみならず、尊攘の志士をいよいよ激昂(げっかう)せしめ、直弼は蔓延(まんえん)元年(2520)3月、桜田門外で殺され、この事変によって幕府は急速に失墜した。

幕威の失墜

直弼の後を承(う)けた老中 安藤信正(あんどうのぶまさ)は畏れ多くも皇威を借りて時局を安定し、威信の恢復(かいふく)を図らうとして公武合體(こうぶがったい)を策し、将軍家茂(いへもち)のため皇妹 和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)の御降嫁(ごこうか)を奉請(ほうせい)して勅許を得たが、このやうな策略はかへって志士の憤激を招き、文久(ぶんきゅう)2年(2522)正月、信正は坂下門(さかしたもん)外に襲撃されて傷つき、ここに幕府政治の破綻(はたん)と幕威の失墜はもはや恢復する術もなく、尊皇攘夷の運動は天下に盛行することとなった。

日米通商条約(抄出)

第6条

日本人に対し法を犯せる亜米利加人は、亜米利加コンシュル裁判所にて吟味の上、亜米利加の法度(はっと)を以て罰すべし。

亜米利加人へ対し法を犯したる日本人は、日本役人糺(ただし)の上、日本の法度を以て罰すべし。

勤皇志士の忠烈

身はたとひ武蔵の野邊に朽ちぬとも とどめ置かまし大和魂 (吉田松陰)

君が代を思ふ心の一すぢに 我が身ありとは思はざりけり (梅田雲濱(浜)うめだうんぴん)

(3)尊攘運動の進展と大政奉還

尊攘運動の発展

嘉永(かえい)・安政年間に於ける水戸藩を中心とする諸藩及び志士の尊攘運動は、幕府を鞭撻(べんたつ)し、頽廃(たいはい)した士気を振肅(しんしゅく)して外夷を防ぎ、國體を擁護し奉らうとするにあった。

然るにやがて文久年間に入るや尊攘運動は次第に皇政復古をめざす討幕運動に進展し、薩摩・長門(ながと)・土佐等の雄藩(ゆうはん)の志士は忠誠憂国の心あふれて京都に集り、少壮気鋭の朝臣と気脈を通じて浪士と往来し、しきりに討幕を画策しはじめた。

薩長二藩の活動

かくて西国の諸大名は多く上洛して皇居警衛の朝令を拝し、幕府の威力は全く地に堕ちて政局の中心は正に京都に移った観があった。

この頃から薩長二藩の活動は特に著しく、薩州藩は幕府の改革を望んで文久二年(2522)、前藩主斉昭(なりあき)の弟 島津久光(しまずひさみつ)は朝命を奉じ、勅使大原重徳(おおはらしげとみ)を護衛して江戸に下り、朝旨の伝達に尽くした。

この朝旨は将軍を上洛せしめて公武合体の實を示さしめるとともに、幕府をして大いに幕政を改新せしめることにあった。

ところがその後長州藩は過激な攘夷討幕の説を唱へて京都を動かし、文久三年(2523)、やがて将軍家茂が上洛した時は、京都には尊皇攘夷の徒が多く集って攘夷の気勢を募るばかりであったため、将軍も遂に勅命を奉じ5月10日をもって攘夷の期日と定め、これを諸藩に布告した。

攘夷討伐の気勢

かくてその期日になり長州藩は下関海峡を通過する米・佛・蘭の艦船を砲撃して攘夷の気勢を煽(あふ)り、また進んで討幕を企て、三条実美(さんじょうさねとみ)等の朝臣と謀って攘夷御親征と号し、大和に行幸を請ひ奉って一挙に討幕を行はうとさへ企てた。

朝儀の急変と討幕の挙兵

然るに朝議は俄に一変して親征の延期となり、長州藩の皇居護衛は免ぜられ、次いでいはゆる七卿落(しちきゃうおち)となって京都の形勢は逆転した。

これに失望した志士は憤慨やる方なく、大和・但馬(たじま)・常陸(ひたち)等に相次いで尊攘討幕の兵をあげたが、いづれも時未だ到らず幕府のために撃破せられた。

また長州藩の三家老は尊攘の誠意を訴へるため兵を率いて東上するに及び、会津・薩摩・桑名などの諸藩はこれを防いでいはゆる蛤御門(はまぐりごもん)の変を惹起した。

長州征伐

ここに於いて幕府は勅令を奉じ長州征伐の軍を起こしたが、長州藩ではひたすら罪を謝し恭順(きょうじゅん)の意を示したので、やがて幕府も軍を停(とど)めた。

ところが程なく長州藩の高杉晋作(たかすぎしんさく)は藩主を奉じて再び兵をあげ、幕府に反抗したので幕府は勅許を得て再征の軍を発したが、この時既に薩長の連合が成立して薩州藩は長州藩を援助し、幕府は戦況の不利に加えて将軍家茂が大阪に薨(こう)じたので、一橋慶喜がこれに代わって将軍となり、慶応二年(2526)、勅命によって職を停めた。

討幕の勅使降下

慶応二年十二月、孝明天皇が崩御あらせられて、抑年正月、第122代明治天皇が践祚(せんそ)あらせられた。

この頃朝臣の間にも次第に討幕の気勢が高まり、岩倉具視(いわくらともみ)、三条実美(さんじょうさねとみ)は志士の斡旋によって互いに気脈を通じ、薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通・長州藩の木戸孝允(きどたかよし)等とともに討幕を計画して、遂に薩長二藩は討幕の密勅を拝した。

大政奉還と幕府の終焉

これに対し幕府をして大政を奉還せしめようとする運動も土佐藩によって進められ、これに奔走したのが後藤象二郎(ごとうしょうじろう)であったが、前藩主山内豊信(やまうちとよのぶ)は時期の到来したのをみて10月13日、幕府に書を呈して大政奉還(たいせいほうかん)を勧めた。

慶喜も深く時勢を察して意を決し、遂に翌14日、大政奉還を奏請(そうせい)し、併せて幕府の失政を陳謝し奉った。

奇しくもそれは討幕の密勅降下と同日のことである。

奏請の趣旨は列強と対峙し、國體を擁護し奉るには政権を朝廷に還し奉り、公議を盡して聖断(せいだん)を仰がねばならないといふにあった。

その誠意は直ちに聴許(ちょうきょ)あらせられ、かくて江戸幕府は開設以来265年で亡び、源頼朝鎌倉幕府創設以来の武家政治がここに終を告げたのである。

皇政復古と国難の克服

江戸幕末内外の情勢は正に我が國未曾有(みぞう)の国難を現出した。

殊に當時に於ける欧米列強の東亜侵略によって、幾多の東亜及び南方の諸国が蒙(こうむ)った領土的侵害とその惨禍を思ふ時、我が国は實に累卵(るいらん)の危きにあったのである。

然るに我が國に於いては肇国以来、上(かみ)に萬世一系(ばんせいいっけい)の天皇を戴(いただ)き、下(しも)国民の忠君愛国の至誠は渝(か)わることなく、ここに皇室を奉戴して挙国一致、以て欧米諸国の外寇を撃攘(げきじょう)し、尊厳無比な我が國體を擁護し奉ろうとする国民精神の昂揚が、やがて尊皇攘夷となって皇政復古を実現し奉りよく国難を克服し得たことは、實に我が國體のしからしめるところであるとともに、我が肇国精神の輝かしい発露であった。

大政奉還の上表(抄出)

愈(いよいよ)朝権一途に出て申さす候ては 綱紀(こうき)立ち難く候間、

従来の舊習(きゅうしゅう)を改め、政権を朝廷に帰し奉り、廣く天下の公儀を盡し、

聖断を仰ぎ、同心協力共に皇国を保護仕候得は、必ず海外万国と竝(なら)び立つへく候。

臣慶喜国家に盡す所是(これ)に過きすと存し奉り候。   (慶應3年10月14日)

註)–古い


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