「寛政の三奇人」って聞いたことありますか?
残念ながら私は学校では習った記憶がなく(^-^;
今の歴史教科書では「寛政の三奇人」という言葉のみ紹介されているという話も耳にします。
どんな人だったのでしょうね。
まず、この「奇人」の「奇」というのは「優れた」という意味。
変人だ、と言っているわけじゃないのですね。
蒲生君平(がもうくんぺい)
蒲生君平(1768~1813)は、84代にわたる天皇陵を全国で調査して『山稜志』という本を著しました。
例えば、初代 神武天皇については、崩御の翌年「畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)に葬られたことが『日本書紀』に書いてあるのを参考にして、その御陵を探したんだそうです。
そのような感じで、84個の天皇陵を見つけ、歴代天皇陵リストを作りました。
お墓があれば、実在がわかりますよね。確かに。
有名な仁徳天皇陵の「前方後円」墳という名称は、蒲生君平が名付けたんですって。
「太平記」を読んで尊皇思想に目覚めて、水戸学の藤田幽谷の影響を受け忠勤に励み、
曲亭馬琴や本居宣長などとも交友しました。
栃木県宇都宮市にある蒲生神社は、蒲生君平をお祀りしている神社。
平成30年には蒲生君平生誕250年祭がとり行われたとか。
平田篤胤とも親交が厚かったそうです。
『山稜志』を書いたのは文化7年(1810)。海外からの危機が迫ってくるのに対してどのような国家機構を持つべきか模索をした人でもありました。
比叡(ひえい)の山みおろす方(かた)ぞ哀れなる
今日(けふ)九重の数し足らねば
蒲生君平が『山稜志』を作るために京都に来ていた文化元年の頃の詠。
比叡山四明岳に将門岩という自然石が転がっているそうです。
将門はそこから京都を俯瞰して野望を起こしたという説があります。
蒲生君平は平将門が立ったであろう同じ場所に立ち、詠んだんですね。
「いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に 匂ひぬるかな」
と小倉百人一首に伊勢大輔(いせのたいふ)和歌がありますが、
平安時代の絢爛豪華さとは打って変わって、
宮殿は荒れてしまっている、天皇のお墓(山稜)も荒廃してしまってどこにどの天皇の陵があるのかすらわからない状態だ。
そのような嘆きが感じられますね。
林子平(はやししへい)
林子平(1738~93)は、江戸時代中後期の経世家。
経世家(けいせいか)というのは、江戸時代 幕藩体制の危機を意識して具体的政策を論じ為政者の覚醒をうながした在野の知識人のこと。 林子平、本多利明、佐藤信淵、大原幽学等が代表的です。
林子平は『三国通覧図鑑』『海国兵談』等で蝦夷地(えぞち)や江戸湾防備について提言しました。
当時はタブーだったテーマに触れたことで幕府に目を付けられ、製本没収・蟄居(ちっきょ)となり、翌年病死しました。
『海国兵談』の巻末に朱印でおされた和歌があります。
伝へては わが日(ひ)の本(もと)の つはものの
法(のり)の花咲け 五百年(いほとせ)の後(のち)
林子平は、「外寇を防ぐの術は水戦にあり、水戦の要は大銃にあり」
と、海軍を興すべき事、大砲を主たる兵器とすべきことを強く説いています。
この自分の著述は日本武士の法典となるが、今の人には理解できないだろう。
数百年の後 この法典の花を咲かせることができるだろう。
そういう意味です。
高山彦九郎(たかやまひこくろう)
高山彦九郎(1747~93)は江戸中後期の勤皇家。
18歳の時に上洛して公卿たちと交わり、諸藩をめぐって尊皇思想を説きました。
足利尊氏の墓にムチ打ったというエピソードは有名ですね。
高山彦九郎は45歳の時に、光格天皇の竜顔を拝する栄誉に浴しました。
その時詠んだ和歌が
われを我としろしめすかや すべらぎの 玉の御声のかかるうれしさ
この時に感じた高山彦九郎の想いは、今を生きる私たちも容易に想像できますね。
寛政の三奇人についてのエピソードも、昨日ご紹介した『決定版 日本書紀入門――2000年以上続いてきた国家の秘密に迫る』 に載っているので、ご覧になられてみるのもよいでしょう。
幕末の志士のみならず、国を守った人々の和歌を集めた『愛国百人一首』も味わい深いですよ。
コメント
[…] 寛政の三奇人として有名な高山彦九郎もいます。 […]
[…] 弟子には「寛政の三奇人」の一人 高山彦九郎がいます。 […]
[…] 林子平(はやししへい)がこのやうな海外情勢の緊迫を鑑(かんが)みて、我が国の海国である所以を明らかにし、海防の急務を説いたのはこの時のことであるが、世界情勢に暗い幕府 […]