かへらじとかねて思へば梓弓、、楠木正行辞世の句は誰もが知っている歌だったんですって


百人一首というと小倉百人一首が有名ですが、実は他にもたくさんの百人一首が編纂されています。

一例をあげますと、

『源氏百人一首』『英雄百人一首』『烈女百人一首』『和魂百人一首』『明治百人一首』『平成百人一首』

などなど。

詩人 川田順が昭和16年に編纂した『愛国百人一首』を読んでいたら、

楠木正行(くすのきまさつら)の歌の解説に、「この歌のことはあまりに有名で、児童走卒も知っている。説明を略す。」という文言があって、びっくり。

かへらじとかねて思へば梓弓 なき数にいる名をぞとどむる

楠木正行(くすのきまさつら)は楠木正成の嫡男で南北朝時代に活躍した南朝方の武将です。
湊川の戦いで楠木正成が討ち死にしたあと父の遺命を引き継ぎ南朝の為に奮闘しました。

かへらじと かねて思へば 梓弓(あづさゆみ)

なき数(かず)にいる 名をぞとどむる

 (楠木正行 くすのきまさつら / 太平記)

~意味~

二度と生きて帰るまいと決意しているから、ここにその死ぬ決意の者の名を永久に残そうと書きとどめる

~~

父 楠木正成との桜井の別れ
建武3年(1335)5月21日、楠木正成は、湊川の決戦に向かう時に桜井の駅で、11歳の長男楠木正行に今生の別れを告げます。
楠木正行は父と一緒にと願いましたが、「後に残り忠孝を励め」と短刀一振りを与えて河内へ帰しました。桜井の別れです。
四條畷の戦い
1348年、四條畷の戦い(大阪府四條畷市)で足利軍に敗れ、1348年2月4日(貞和4年1月5日)に弟の楠木正時と刺し違えて自決。
楠木正行は、最終決戦である四條畷の戦いに出征するにあたり、吉野の皇居に後村上天皇に拝謁し、その後 家来143人と共に吉野の如意輪寺にある後醍醐天皇陵に参拝しました。各々髪を切って佛前に奉納、過去帳に姓名を書き連ね、如意輪寺の本堂の扉に鏃(やじり)で書き記し出陣しました。

楠木正行が辞世の句を記したその扉は如意輪寺に現存するそうです。

戦前は尋常小学校の国史の授業で習っていたんですね。

楠木正行は、忠孝両全(両全とは、君主への忠義と両親への孝行をどちらも果たすこと)の武士として長く尊敬されてきたのですね。

実に正行のような人こそ、勇も仁もある立派な武士で、忠孝の道を全うした人といわねばならぬ。こうして、楠木氏は正行の死んだ後も、その一族は、皆、真心こめて長い間、朝廷の御ためにはたらいた。今は、四條畷神社に正行をまつってある。

(尋常小学校 国史)


戦後の教科書に楠木正行の話って載っているのでしょうか。

父を敬い君主に忠義を尽くす、そんな精神性をもった人たちの集団だったら、百人力。恐ろしくてちょっかい出せないですよね。

スポンサーリンク
simplicity11
simplicity11

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク
simplicity11