大海人皇子(天武天皇)と額田王の恋が、壬申の乱の背景に?まさか(@_@)


皇位継承をめぐって大友皇子(おおとものみこ/弘文天皇)と大海人皇子(おおあまのみこ・天武天皇)が戦った壬申の乱で、伊勢から吹いてきた風に助けられて天武天皇の軍が勝利をおさめ、それ以降伊勢神宮は皇室の氏神をまつる神社として特別の地位を得ることになったお話を先日しました。

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大海人皇子(天武天皇)と額田王の恋が、壬申の乱の背景に?

天皇系図

第35代皇極天皇(642-5)に仕えていた額田王(ぬかたのおおきみ)は、天智天皇(てんじてんのう)の弟 大海人皇子(おおあまのみこ/天武天皇の皇子時代)と恋仲にありました。

『万葉集』に相聞歌(そうもんか)として収録されています。

相聞というのは、男女が恋の想いを相聞こえる、つまり恋の歌を交し合うということです。

あかねさす 紫野(むらさきの)行き 標野(しめの)行き
 野守(のもり)は見ずや 君が袖振る  (額田王/『万葉集』)

紫草の先満ちている御料地を、あなたは行ったり来たりしながら、私に袖を振ったりなさってずいぶん大胆ですこと。そんなあなたのふるまいを、野の番人は見とがめないかしら。大丈夫ですか?あなた・・

額田王は、自分に向かって袖を振って愛情を示してくれる大海人皇子(おおあまのみこ)に対して、嬉しいと思いながらも、大胆な恋人の行動を野の番人に見とがめられはしないかと心配しています。

この歌は、近江(おうみ)の蒲生野(がもうの)にある天智天皇の御料地で、皇太弟である大海人皇子や他の王侯貴族、廷臣たちが集まって盛大な野外パーティーが、初夏のある日に行われたときに詠まれました。

これにこたえて大海人皇子は

紫草の にほへる妹(いも)を 憎くあらば
  人妻故に 我れ恋ひめやも   (大海人皇子)

紫草のように美しくあでやかなあなたが憎かったら、どうして私はこんなに恋焦がれるでしょうか。今は既に人妻であるあなたなのに・・・

野守が見ようが見まいが関係ない。大海人皇子のまなざしは、恋する額田王にずっとそそがれていたのですね。

実は、この野守は主催者の天智天皇だったのではないか、という説もあります。

この蒲生野の狩猟パーティーの時、額田王は天智天皇に仕えていました。

だけど、はるか昔、額田王も大海人皇子も若かった時には、二人は恋仲でした。

秋の野の み草刈り葺き 宿れりし
 宇治の宮処(みやこ)の仮盧(かりいほ)し思ほゆ (額田王)

第35代皇極天皇が、大和から近江に行幸されたとき、お伴をした時の歌。

お伴として付き従った人々の中に大海人皇子もいたのではないか、そんなことを連想させるうたです。

額田王と大海人皇子の間には、十市皇女(とおちのひめみこ)が生まれており、

十市皇女は壬申の乱で天武天皇(大海人皇子)が戦った弘文天皇(大友皇子)に嫁いでいます。

さて、少し話がそれてしまいました。

蒲生野の野守 天智天皇は、即位前 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)といいました。

そう、大化の改新の立役者と言われている天皇ですね。

中大兄皇子は大海人皇子と兄弟。

中大兄皇子は、中臣鎌足(なかとみのかまたり/ のちの藤原鎌足)と組んで、皇極4年(645)にクーデターを起こして蘇我氏を滅ぼし、大化の改新を行った切れ者。

政権を手中に収めてからは、政敵を次々と消していったと言われています。

37代 斉明天皇が、百済救済のための西征中に亡くなった後に、中大兄皇子は飛鳥から近江に都を移して天智天皇として即位し、大海人を皇太弟とします。

額田王は、天智天皇に召されて、近江大津宮に仕えました。

恋人 大海人皇子のもとを去って、天智天皇に仕えた、その理由はわかっていません。

三輪山(みわやま)をしかも隠すか 雲だにも
 心あらなも 隠さふべしや (額田王)

恋しく懐かしい三輪山をあのように隠す雲よ。

雲よ、情けを解する心があるのなら、どうか恋しい三輪の山を私の目から隠さないで。

額田王 近江の国に下りしとき、という詞書(ことばがき)がついたこの歌に、なんだか切ない思いが込められているようです。


清川妙の萬葉集 (ちくま文庫)

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