【海軍さんの歴史教科書】9.明治維新と新政の進展


「前章8.幕末内外の情勢」 では、江戸幕府が制度疲労を起こしているその時に、海の外では、イギリスがインドの大半を領有し、阿片戦争で支那から香港を奪い、アメリカ、フランス、ロシアも、続々東亜侵略をし始め、日本にとってもそれは現実的な脅威だったのですが、幕府は適切な対応ができず、国民の間には尊皇攘夷思想が起こり始め、安政の大獄などの大粛清があったり、てんやわんやの末(ちょっと雑な表現ですね)、大政奉還となります。

別に徳川慶喜将軍に無理やり大政奉還をさせたわけではなく、慶喜も時勢をみてそれがいいと思っていたのとちょうど一致したという説明は、私には新鮮でした。

大政奉還の上奏文を読めたのも嬉しい。

[海軍さんの歴史教科書]8.幕末内外の情勢
前章の末尾にある本居宣長の『直毘霊(なほびのみたま)』という本は、『古事記伝』の序に当るものだそうです。 (再掲) 古道の闡...

さて、ここからは、いよいよ「第9章 明治維新と新政の進展」です。

9.明治維新と新政の進展

(1)維新の大業

皇政復古の大號令(こうせいふっこのだいごうれい)

明治天皇は、慶応三年正月、践祚(せんそ)遊ばされるや、10月15日、徳川慶喜の大政奉還を聴許遊ばされ、次いで12月9日、皇政復古の大號令(こうせいふっこのだいがうれい)を発し給ふて、神武天皇御創業(ごそうぎょう)の古(いにしへ)に復し、天皇御親政の下に大いに新政を施される御旨を明らかにし給うた。

かくて萬機はことごとく天皇の御親裁に帰し、政令はいづれも朝廷から出ることとなって、ここに萬邦無比(ばんぽうむひ)の我が國體(国体)は再び赫(かくかく)たる光輝を放つこととなった。

五箇條の御誓文

次いで明治維新を迎へて第一に発せられたのが五箇條の御誓文である。

即ち慶応四年三月、天皇は紫宸殿(ししんでん)出御(しゅつぎょ)あらせられ、文武百官(ぶんぶひゃっかん)を率ゐて天神地祇(てんじんちし)を祭り、親政の方針として五事を誓はせられ、且つ国民に御示しになった。

一. 廣く會議を興し萬機公論に決すへし

一. 上下心を一にして盛に経綸を行ふへし

一. 官武一途庶民に至る迄各其の志を遂げ人心をして倦(う)まさらしめんことを要す

一. 舊来(きゅうらい)の陋習(ろうしゅう)を破り天地の公道に基くへし

一. 知識を世界に求め大に皇基を振起すべし

この五箇條は實に新政のはじめに當(あた)って、祭政一致の国風に基づき開国進取の国是(こくぜ)の大木を国の内外に宣布し給うたものであって、新日本の進むべき大方針がここに明らかに示されたのである。

億兆安撫國威宣布(おくてふあんぶこくいせんぷ)の御宸翰(ごしんかん)

天皇はこの日また億兆安撫國威宣布(おくてふあんぶこくいせんぷ)の御宸翰(ごしんかん)を賜はり、

今般朝政一新の時に膺(あた)り 天下億兆一人も其の處を得さる時は 皆朕が罪なれは 今日の事朕自ら身骨労し 心志を苦め 艱難の先に立て 古列聖の盡させ給ひし蹤(あと)を履(ふ)み 治績を勤めてこそ 始て天職を奉して 億兆の君たる所に背(そむ)かさるへし
と仰せられ、
一身の艱難辛苦を問はす 親(みずか)ら四方を経営し 汝億兆を安撫(あんぶ)し遂には萬里の波濤(はたう)を拓開(たくかい)し 国威を四方に宣布し 天下を富岳(ふがく)の安きに置かんと欲す
と宣(の)べ給ひ、御誓文(ごせいもん)の御趣旨を廣く国民に知らしめ給うた。
ああ、これ實に肇国精神に基づく御歴代の仁慈愛民の御精神と、神武天皇御創業に當り天下に宣揚し給うた八紘爲宇(はっこういちう)の大理想に、照應(しょうおう)遊ばされる御精神でなくて何であらうか。

註)御宸翰–天皇直筆の手紙

註)富岳–富士山のこと

明治維新の大業

かくて慶応四年八月、天皇は即位の御大禮を行はせられ、翌九月、年號を明治と改め、明治二年三月、皇居を東京に奠(さだ)めて之を諸政一新の帝都となし給うた。

次いで同年畏くも舊幕(きゅうばく)諸藩の版籍奉還(はんせきほうくわん)の奏請を聴許あらせられて、源頼朝の鎌倉幕府開設以来680年の封建制度を完全に一掃し、更に明治四年には廃藩置懸を断行あそばされて、ここに明治維新の大業は名実ともに備はり、やがて肇国以来比類ない明治の聖代(せいだい)を現出することとなった。

註)(きゅう)–ふるい

皇政復古の大號令

王政復古国威挽回(ばんかい)の御基立てなされ候間、自今(じこん)攝關(摂関/せっかん)幕府等廃絶、即今 先つ假(か)りに総裁議定参與(そうさいぎていさんよ)の三職を置かれ萬機行はせらるへく、諸事神武創業の始に原(もと)つき、縉紳武辨堂條地下(しんしんぶべんだうじょうぢげ)の別なく、至當の公議を竭(つく)し、天下と休戚(きゅうせき)を同く遊はさるへき叡慮に付、各勉勵(べんれい)舊来(きゅうらい)驕惰(けふだ)の汚習を洗ひ、盡忠(尽忠)報国の誠を以て奉公致すへく候事。

(慶應三年十二月九日)

註)攝關(摂関/せっかん)–摂政関白のこと

-しん、さしはさむ

休戚(きゅうせき)– 喜びや悲しみ

(2)新政の進展

復古維新の意義

明治維新のはじめに當り、天下に公布せられた開国進取の国是に基づき、明治新政の大業は年とともに輝かしい進展を遂げて行った。

而してこれを貫(つらぬく)くものはあくまで肇国(ちょうこく)の大精神であり、これに基づく諸制度の改革、新政の樹立であった。

ここに復古即ち維新、維新即ち復古という我が独自の国体に基づく明治新政の意義が窺(うかが)はれる。

明治新政の勝利

而して明治維新後、我が国が旺盛なる意欲を以て欧米の文化を輸入しその制度を採用したのは、実に知識を世界に求め、大いに皇基(くわうき)を振起するための手段であって、その結果、幕末以来の欧米諸国の東亜侵寇を斥(しりぞ)け国威を宣揚したのみならず、八紘爲宇の大理想を世界に実現し得る実力を貯(たくは)へて現在のやうな国運隆昌に赴(おもむ)く基(もとゐ)がこの時代に固められたことは、実に肇国精神に基づく明治新政の輝かしい勝利であった。

立憲政體の確立

明治新政の進展に於て先づ輝かしい革新を遂げたものは立憲政體(りっけんせいたい)の確立であった。

即ち明治天皇は御誓文の御趣旨に基づき常に廣く公議を聞かせられて、萬民に翼賛(よくさん)の道を開き給ふ御仁慈を垂れさせ給ふてゐたが、明治八年四月、立憲政體創立の詔が発せられ、更に国民の間にも国会開設の運動が起こって機が熟するに及び、明治十四年十月には二十三年を期して国会を開設すべき御旨の勅語が発せられた。

憲政実施の準備

ここに国民は来るべき光栄の日に備へて政黨(党)の組織に着手するとともに、憲法制定の必要が高まり、明治十五年、伊藤博文は立憲制度調査の命を承けて廣くヨーロッパ諸国を巡歴(じゅんれき)し、諸外国の憲法を比較研究し、後、帰朝するや鋭意憲法の起草に當った。

かくて天皇御統裁の下に慎重な審議の結果、欽定(きんてい)あらせられたのが我が皇室典範及び帝国憲法である。

憲法の発布

明治二十二年二月十一日、紀元節の佳節(かせつ)を卜(ぼく)し給ひ、天皇は先づ賢所(かしこどころ)・皇靈殿(こうれいでん)に憲法制定の御旨を御親告あらせられた後、皇后と御共に宮中正殿(せいでん)に出御(しゅつぎょ)せられ、文武の百官を召して憲法発布の盛典を挙げさせられた。

帝国憲法の尊厳

大日本帝国憲法は皇祖皇宗の御聖徳を顕彰(けんしょう)し給ふとともに、畏くもまた我が帝国臣民の福祉を増進せしめ給はうとの大御心をもって、肇国以来歴代天皇の傳へ給うた統治の御傳統を文章として書き表し、天皇御親からこれを天下に発布し給うたものであった。

されば我が国の憲法は即ち欽定憲法であって、その御制定は諸外国の憲法制定と全くその事情を異にし、正に肇国の大精神に基づく天業恢弘(てんぎょうかいこう)の大業であった。

而してその條章は天壌無窮の神勅に基づき、万世一系の天皇が永遠に我が国を統治し給ふ我が國體を明らかにし、天皇御親政の下にその聖業を翼賛し奉るべき国民の義務を定められたもので、その尊厳は世界に比べるものがない。

註)天業恢弘–天皇の国を治める業を押し広めること

帝国議会の開設

かくて翌二十三年十一月、帝国憲法の規定によってはじめて帝国議会を東京に召集し、天皇は親しくこれに臨み給ふて開院の式を挙行せられた。

ここに我が国独自の立憲政体は確立し、萬機公論(ばんきこうろん)の御誓文の御趣旨に基づき、国民はひとしく国政参与の御仁慈を蒙(こうむ)り、黒雲がいよいよ隆昌に赴く基(もとゐ)が開かれたのである。

開国和親の外交方針

明治新政の進展は次いで外交の刷新と富国強兵策となって現れた。

先に幕末の攘夷論は必ずしも排他・固陋(ころう)のものではなく、幕府の姑息な対外政策を危み、攘夷によって幕府の士気を鼓舞し、幕府をして外侮を受けぬ程度まで国力の充実を図らしめ、然る後に国を開いて諸外国と和親しようとする慮(おもんぱか)りある攘夷であった。

されば新政はそのはじめに當り早くも開国進取の国是を定め給ふとともに、明治元年正月 朝廷は皇政復古を外国使臣に告げ、また同時に開国和親の外交方針を布告して国民の奮起を促し給うた。

外交の刷新と條約改正問題

かくて八紘爲宇の大理想に基づき大いに国威を海外に宣揚しようとする開国進取の精神は、新日本の不動の国策となった。

然るにさきに安政以来江戸幕府が欧米諸国と締結した条約は、我が国に極めて不利であり、我が国運の進展を妨げることが頗(すこぶ)る大であった。

されば条約改正の問題は外交刷新の急務として、我が外交・内治上幾多の努力がこの問題解決のために拂(はら)はれた。

而してこの努力はやがて我が国力が大いに充実し、明治二十七八年及び三十七八年両戦役に我が国が大勝を博した後、はじめて条約の完全な改正に成功するまで続けられていったのである。

兵制の改革

この国力充実のために断行せられたが富国強兵の策である。

古来我が国は天皇御親率を建軍の本義とし、江戸幕府の大政奉還によって兵馬の大権は再び天皇に帰し給うたが、爾来大村益次郎(おおむらますじろう)、山懸有朋(やまがたありとも)・西郷従道(さいごうつぐみち)等は兵制の改革と軍備の充実に大いに努めた。

やがて明治四年、はじめて宮中護衛の御親兵と地方警備の鎭臺(ちんたい)が置かれ、次いで六年には徴兵制度が施行(しこう)せられ、神武天皇御創業に復して国民皆兵の制度が確立せられ、我が国民はひとしく兵役に就いて国防の任に當ることとなり、皇軍は海陸共に真に充実発達の途に就いた。

帝国海軍の創設

特に我が海軍は早くも明治元年七月、海軍の基礎を速やかに確立すべき御旨の御沙汰を賜わって以来、着々その擴充(かくじゅう)に努められたが、舊幕諸藩(きゅうばくしょはん)の中には続々艦船を献納するものもあり、やがて廃藩の断行とともに艦船の所属が明確に統一せられて、ここに我が帝国海軍が再び天皇御親率の海軍として誕生し、常に皇国興廃の運命を双肩に担ひながら現在のやうな無敵海軍の現出にまで発達する基が築かれたのである。

軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)の下賜(かし)

かくて天皇は大元帥(だいげんすい)として海陸の軍隊を御親率遊ばされ、明治十五年には特に陸海軍人に勅諭(ちょくゆ)を下賜あらせられて、我が建軍の本義と軍人の本分を諭(さと)し給うた。

我が皇軍の遵奉(じゅんぽう)すべき軍人精神はこの勅諭に示されて余すところがない。

国力の増進

また強兵と同時に富国を策した政府は、貨幣制度を立てて金融の円滑を図るため明治二年、造幣局を設けて新貨幣を制定し、また幾多の公私の会社を設立して殖産興業(しょくさんこうぎょう)を促すとともに、海陸の交通機関・通信機関の整備を図って大いに国富の増進、財政の整備に努めた。

やがて廃藩置県を経て明治六年に地租(ちそ)の改正が断行せられるに及び、兵制の確立と相俟(ま)ち富国強兵の策は着々とその功を奏して、明治聖代より現代に至る肇国以来比類ない国運隆昌の基礎が定められることとなったのである。

典憲欽定に際し皇祖皇宗の神霊に誥(つ)げ給うた御告文

顧(かえり)みるに世局の進運にあたり人文の発達に随ひ宜(よろし)く皇祖皇宗の遺訓を明微にし典憲を成立し條章を昭示し内は以て子孫の率由(そつゆう)する所と為し外は以て臣民翼賛の道を広め永遠に遵行(じゅんこう)せしめ益国家の丕基(ひき)を鞏固(きょうこ)にし八州民生の慶福を増進すべし 茲(ここ)に皇室典範及憲法を制定す 惟(おも)ふに此れ皆皇祖皇宗の後裔(こうえい)に貽(のこ)したまへる統治の洪範(こうはん)を紹述(しょうじゅつ)するに外ならす

(明治二十二年二月十一日)

註)丕(ひ)–おおきいこと

鞏(きょう)–固い

海軍創立急務に関する御沙汰

海軍の儀は當今第一の急務に付速に基礎相立候様 講究(こうきゅう)有るへきの旨御沙汰候事

(明治元年十月二十五日)


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