【海軍さんの歴史教科書】10.国威の宣揚


10.国威の宣揚

(1)明治二十七八年戦役

日清関係の推移

明治新政の始めに當り開国和親の外交方針をとった我が国は明治4年、清とも修好条約を結んだが、その後の日清の関係は琉球の所属、臺灣(台湾)の征討などの問題をめぐって、必ずしも安泰には推移しなかった。

しかも両者の関係を更に悪化せしめたものが實に朝鮮の問題であった。

朝鮮半島と我が國

古来朝鮮半島は我が國とはきわめて深い関係にあり、特にその地理的位置は国防上極めて重大な意義を有した。

蓋し朝鮮はそこに外国の強大な勢力と侵略の魔手が及ぶときは、恰(あたか)も我が国に擬せられた匕首(あひくち)のやうに、我が国の防衛は到底安全を期し得ない位置にあるからである。

されば明治維新後の我が國外交上の努力は、主として朝鮮の育成と独立擁護のために拂(はら)われた。

然るに今や我が国と清が朝鮮をめぐって対立するやうになったことは、まことに遺憾の極みであった。

朝鮮の開国

明治のはじめ朝鮮は鎖国方針を守って我が国との修好を拒み、剰(あまつさ)へ我が対外方針を軽侮(けいぶ)する態度を示したが、明治8年、江華島(こうかとう)事件の勃発によって遂に我が国と修好条約を結んで開国を承認するに及び、欧米諸国は我が国と等しい恩恵に浴すべきことを朝鮮に要求し、やがて朝鮮は次第にその港湾と内地を貿易・居留・宣教等のため英・露・米・佛・伊・独等の諸国に開放した。

ここに東亜の悲劇が始まる。

欧米列強の朝鮮侵入

即ち朝鮮が初めて開国するや、欧米列強はこれらの諸国が東亜の他の地方を侵略するためにとった常套手段を用ひて朝鮮に内乱を惹起せしめ、内乱のため国情が不安定であるのに乗じて利権の獲得と商権の攘張に狂奔しはじめた。

朝鮮の独立擁護

かくて朝鮮は我が国にとって国防上極めて危険な国にならうとする形勢にあり、我が国は朝鮮の完全独立の必要を唱へて侵略国の野望から朝鮮を救うために努力した。

ここに於いて容易にその野望を達することができない欧米諸国が次にとった方法は、各方面から朝鮮に於ける支那の宗主権(そうしゅけん)を主張し、その支那を侵略的野心の手先にしようとする謀略手段であった。

朝鮮問題の進展

これよりさき清の政界は既に紊乱(びんらん)の極に達し、政治家達は自己の利益だけを考へて国家を考へず、祖国の重大な利権、殊にその領土までもしきりに欧米列強に譲渡して、支那のみならず東亜全体を恐るべき危地に引き入れつつあったが、巧妙な欧米列強のこの謀略にかかった政治家達は、やがて我が国に対抗して朝鮮に対し、支那の宗主権を主張しはじめた。

かくて朝鮮もまた欧米の宣伝に欺かれて我が國を恐れ且つ疑ひ、我が国の好意を却(しりぞ)けて支那の援助を頼むという大きな錯誤に陥ったのである。

明治15年及び17年の第一次及び第二次京城(けいじぁう)の變(変)は、このやうな事情によって惹起せられたものであった。

東亞平和確立の真意

由来東亜永遠の平和を確立することは、肇国以来我が國不動の大理想であった。

而して明治維新後に於ける我が国力の充実とその飛躍的発展に鑑みるならば、欧米列強の侵寇に対して東亜の天地を確保し得る資格と能力を有する者が、我が国を措いて他にないということは實に明白な事実であった。

さればこの時隣邦諸国は奮(ふる)って我が国に協力し、相率いて東亜和平の実現にまい進すべきであった。

京城の變後、我が國が清と結んだ天津條約は、實に欧米勢力の東亜侵入をふせぐため日清協力して朝鮮の独立を擁護することを、清に約せしめたものに外ならなかった。

然るに支那の腐敗した政治家達は我が国の真意を毫も解せず、東亜をその支配下に置こうとする欧米列強の野心を甘受し、例えばこの時既にロシヤは朝鮮の北部日本海沿岸に於いて、鞏固(きょうこ)な根據を清によって譲與(じょうよ)せられてゐたのである。

清の挑戦

かくて東亜の形勢は今や未曾有の危機に瀕しつつあった。

この時たまたま明治27年、朝鮮に東學黨(とうがくとう)の亂(らん)が勃発するや、清は天津条約を無視して出兵し、後、その旨を我が国に告げて来たが、その文書には挑戦を「保護属邦」と記した挑戦的文字があった。

我が國は朝鮮の独立を尊重して清に抗議を発し、また朝鮮の内政を援(たす)けるため日清共同委員を遣はすことを申し出たが、清はあくまでこれを拒(こば)んだ。

ここに於いて我が国は独力を以て朝鮮の政治改革を導くことに決し、ここに日清和協の望みは絶たれ、やがて豊島沖(ほうたうおき)の海戦、成観(せいくわん)・牙山(がざん)等の陸戦を経て、明治27年8月1日、宣戦の大詔(おおみことのり)が下り日清戦争の戦端が開かれることとなったのである。

連戦連勝の戦況

畏くも 明治天皇は大本営を広島に進め給うて日夜親しく軍事を統監(とうかん)あらせられ、我が忠勇なる将士は一身を国に捧げて奮戦し、国民もまた協力一致して奉公の誠を盡した。

かくて皇軍の進むところ常に連戦連勝の勢いを示し、陸に鮮満の諸城を抜き、海に北洋艦隊を撃滅するとともに澎湖島(はうこたう)を占領し、主力は破竹(はちく)の進撃を以てまさに北京を衝(つ)かうとする形勢を示した。

ここに交戦僅か八か月にして大勢は既に決したので、清は李鴻章(りこうしょう)を使として和を請ひ、下関条約を結んで遂に我が国に屈服した。

第一次對欧米反撃戦としての明治二十七八年戦役

このやうに明治二十七八年戦役は、実に欧米列強の侵略主義の手先に踊って東亜の平和を攪乱(かくらん)した清に対する、我が国の武力抗議以外の何ものでもなかった。

さればこの戦争は明らかに我が国の第一次対欧米反撃戦である。

天津條約(抄出)

一、将来朝鮮國若し変乱重大の事件ありて日中両国或は一國兵を派するを要するときは、応に先づ互いに行文(こうぶん)知照すべし。

其の事定まるに及びては即ち撤回し、再び留防せす。

(明治18年4月18日)

日清海軍兵力の比較

(2)欧米列強の東亜侵略と北清事変

三国干渉

明治27・28年戦役が欧米勢力の東亜侵略に対する我が国の反撃であった以上、戦後これらの諸国の我が国に対する干渉は当然来るべきことが予想された。

蓋し我が満州に広大な領土を占有することは、欧米列強の東亜侵略にとって何よりの障碍(しょうがい)であったからである。

果して東亜侵略の野望に燃えてゐたロシヤは、戦後直ちにヨーロッパ諸国に向かって支那保全の名の下に、日本の遼東領有に干渉することを誘い、独・沸兩國がこれに応じてやがてこれら三国は、武力を以て我が国に遼東(りょうとう)還附(かんぷ)を強要してきた。

我が國は世界の情勢を察し、涙を呑んで遂に遼東半島を清に還附した。

これを三国干渉といふ。

欧米諸国の支那侵略(1)

然るに日清戦争により清の弱体が暴露せられるや列強の清に対する侵略はいよいよ激烈を加えていった。

即ちロシヤは満州に於いて東清(とうしん)鉄道の敷設(ふせつ)権を得(明治29年)、また傍若無人にもさきに我が国をして支那に還附せしめた遼東半島の南端関東州を租借(そしゃく)し、更に南満州鉄道の敷設及び沿線に於ける鑛(鉱)山採掘等の利権を獲得した(明治31年)。

またフランスは廣州(こうしゅう)湾の租借権と鉄道敷設権の重大利権を獲得し(明治32年)、ドイツも前後して膠州湾(かうしうわん)の租借権と山東省内の鉄道敷設権及び鉱山採掘権を収めた(明治31年)。

欧米諸国の支那侵略(2)

既に東亞に於いてロシヤと競争してゐたイギリスも雲南(うんなん)・ビルマ間の鉄道敷設権を得(明治30年)、威海衛(いかいえい)及び九龍半島(きゅうりゅうはんとう)を租借し(明治31年)、更に揚子江沿岸の不割譲(ふかつじょう)を約せしめた(明治32年)。

アメリカの対支政策が活発になり始めたのもこの頃からのことである。即ちアメリカは領土こそ取らなかったが、支那の門戸開放と機会均等主義を唱へて経済上よりこれを支配する地盤を築いていった。

ここに於いて我が国は自衛のため、清と福建省(ふっけんしょう)不割譲の条約を結んだ。(明治31年)。

かくて支那は表面独立国でありながら殆どの實を失ひ、いはば第二のアフリカとなろうとする有様を呈するやうになった。

北清事変の勃発

このやうに列強の圧迫がますます清に加はるに及び、その国民の排外思想も漸(ようや)く盛となって明治32年、遂に保清滅洋(ほしんめつよう)の旗を掲げる義和団(ぎわだん)の暴動が起り、翌年進んで北京に侵入して列強公使館(こうしかん)を包囲し、遂に北清事変の勃発となった。

この時清朝もまたひそかに圑匪(だんぴ?)に通じてその暴挙を助け、排外思想を大いに鼓舞した。

註)圑–ダン、タン。かたまり、まるいこと
匪–ヒ。 ①あらず。否定の助字。「匪石」 [類]非 ②わるもの。「匪賊」

變後の東亜情勢

かくて日・英・米・露・沸・独・墺・伊の八カ国の共同出兵となり直ちに暴徒を鎮圧したが、その主力となって奮戦した我が軍の活動は列国の称賛の的となった。

而してこの事変により清はいよいよ衰退の度を増し、これに対し東亜に対する欧米の圧迫は更に大なるものとなっていった。

就中ロシヤの満州併呑の野望はますます露骨を極め、變後ロシヤは満州の駐兵を撤しないのみならず、着々戦備を増強するに及んで、東亜の安全を確保すべき我が国の使命はいよいよ重大となっていった。

(3)明治三十七八年戦役

日清戦後の経営

我が國は三国干渉の苦役をなめた後、内に於いては産業を興し軍備を整へ、国民精神を振作して一旦緩急(かんきゅう)の場合に備へるとともに、新版圖(しんぱんと)である臺灣(たいわん)の経営には頗(すこぶる)る意を用ひ、ここに総督府を設けて新附(しんぷ)の島民をあまねく皇化に浴せしめた。

また外に対しては積極進取の溌剌(はつらつ)たる外交を展開し、殊に清の抑圧を脱した朝鮮に対しては誠意をもって内政の指導に當り、ロシヤの侵入を防いでよく更生の實をあげしめ、ここに明治30年、朝鮮は国號を韓(かん)と改め、国王李熙(りき)が新に皇帝の位に即いて独立国の体面を整へた。

国際的地位の向上

また国際関係に於いては、北清事変に際し我が国は支那に於いて重要な役割を演ずべき決意を表明し、これから列強もまた東亞に於ける我が国の勢力に一応敬意を拂ふやうになり、我が国の国際的地位、殊に東亜に於ける地位は大いに向上した。

しかし欧米列強は依然として東亜、殊に支那侵略の手を弛(ゆる)めることなく、却(かえ)って侵略の歩を進めるばかりであった。

殊にその先鋒はロシヤであった。

ロシヤの野望

ロシヤはさきに嘉永(かえい)年間支那に長髪族の乱、次いで英仏連合軍の侵入が起こるや、その隙に乗じて今の沿海州全部を占領したが、明治5年にはその南端にウラヂオストック軍港を建設して東亜経営の策源地(さくげんち)とし、やがて日清戦後は東亜に優勢を占めて朝鮮及び支那に年来の野心を遂げようとする態度を示すに及んで、その野望は我が国にとって直接の脅威となってきた。

関東州租借後、ロシヤは旅順(りょじゅん)に軍港と堅固な要塞を構築し、更に朝鮮に龍巌浦(りゅうがんぽ)の租借を要求して明治36年には既にこれを占領してゐたのである。

日英同盟の締結

またロシヤは更に西蔵(チベット)にその魔手を伸ばして、印度保全に汲々(きゅうきゅう)たるイギリスに不安を感ぜしめたため、明治35年、我が国はイギリスと協約を結んで、清・韓兩國の領土保全、および日英の一方が他の一国と交戦する場合は他方は厳正中立を守り、二国以上と戦う場合は兩國共同して戦闘に従事することを約した。

いはゆる日英同盟である。

ロシヤの満洲経営

而してこの協約締結の直前、日英両国は共同して清に対し、在満利権をロシヤに譲渡することを承認しない旨の通告を発し、アメリカもまたこれに次いでロシヤの勢力範囲内に於ける機会均等を主張してロシヤと清に抗議した。

形勢非なりと見たロシヤは一ヶ年半以内に満洲から撤兵することを約したが、第一期の撤兵を実行しただけで第二回撤兵に当っては期日になっても実行しないのみか、更に増兵して満洲経営を進めた。

宣戦の布告

ここに於いて我が国は明治36年8月、ロシヤに支那及び朝鮮に関する協商を求めたが拒絶の回答を与へられ、その後我が国がなした再三再四の提案も、我が誠意を無視して顧みないロシヤによってことごとく拒絶せられてしまった。

ここに明治37年2月に至って遂に最後の危機に直面し、6日にはロシヤに国交の断絶を通告した。

かくて明治27年2月10日、東亞平和攪乱の敵を討ち、我が国の安泰(あんたい)を期するため、遂にロシヤに対し宣戦の大詔(おおみことのり)は発せられたのである。

海軍の活躍

大詔(おおみことのり)渙発(かんぱつ)の前日、早くも海軍中将東郷平八郎の率いる我が連合艦隊は、旅順・仁川(じんせん)の港外に於いて敵の艦隊を撃破し、4月13日には旅順港外で敵の太平洋艦隊の旗艦を爆沈させてその司令長官海軍中将マカロフを戦死せしめた。

その間にあって殊に壮烈を極めたのは、2月下旬から5月下旬にかけて三度に亙って行われた旅順港閉塞隊(へいそくたい)の活躍であった。

二度目の閉塞隊に参加した福井丸の指揮者が實に軍神廣瀬中佐であった。

陸軍の奮闘

また陸軍部隊は関東州・朝鮮に続々上陸し、満洲軍総司令官大将大山巌(おおやまいわお)の指揮の下に、敵大軍の南下を遼陽(りょうよう)・沙河(しゃか)に邀撃(ようげき)して大いにこれを破った。

陸軍大将乃木希典(のぎまれすけ)の率ゐる第三軍は、怨み重なる遼東半島にロシヤが東亜の根拠地として構築した旅順の要塞を力攻し、激戦の後、12月6日に至って遂に要地203高地を占領した。

かくて翌38年1月1日、ステッセルは力尽きて降伏し、やがて我が軍は奉天(ほうてん)に敵総司令官クロパトキンの率いる六十万の大軍を包囲して3月10日、遂にこれを降伏せしめた。

日本海の大海戦

これよりさきロシヤでは新にバルチック艦隊を編成し、司令長官海軍中将ロゼストウエンスキーがこれを率ゐて、遥かに東亜に向かって航海を続けてゐた。

もしこの艦隊がウラジオストック軍港に入るならば、我が国にとっては一大事である。

我が軍は如何にしても途中海上に於いてこれを撃破しなければならない。

全世界は今や展開しようとする未曾有の一大海戦に対し種々の予断を下した。

しかも我が連合艦隊は皇国の興廃をこの一戦に堵(と)し、5月27日、敵艦隊を對馬海峡に邀撃(ようげき)して激戦数時間に及び、翌日遂にこれを完膚なきまでに撃滅し去ったのである。

国民の感激熱狂はもとより、世界各国人の我が海軍に対する称賛驚嘆は言語に絶した。

ここに我が国大勝のうちにポーツマス条約が結ばれ、戦いの幕は閉じられた。

註)-よう、むかえる

第二次對欧米反撃戦としての明治三十七八年戦役

かくて臥薪嘗胆(がしんしょうたん)せる我が国民の苦心は報ゐられ、暴戻(ぼうれい)飽くなきロシヤの東亜経営は完全にくじけて満洲・朝鮮はその侵略を免(まぬが)れ、ここに東亜の平和は確立せられた。

この日露戦争は明らかに欧米の東亜侵略に対する日本の第二次反撃戦であった。

註)暴戻–ぼうれい。乱暴で人道に外れていること

日露海軍兵力の比較

日本海海戦の戦捷(せんしょう)に際し連合艦隊司令長官へ賜はりし勅語

連合艦隊は敵艦隊を朝鮮海峡に邀撃(ようげき)し奮戦数日遂に之を殲滅(せんめつ)して空前の偉功を奏したり

朕は汝等の忠烈に依り祖宗(そそう)の神霊に對(こた)ふるを得るを懌(よろこ)ふ

惟(おも)ふに前途は尚遼遠(りょうえん)なり汝等益々奮励し以て戦果を全ふせよ

(明治38年5月30日)

註)捷–しょう、はやい、かつ

祖宗(そそう)–先祖代々の君主

遼遠(りょうえん)–はるかに遠いこと

(4)戦後の情勢変化

東亞に於ける皇国の地位

日露戦争の大勝によって東亜に於ける我が国の地位はますます重きを加へたが、戦後我が国は欧米列強と新情勢に対応する諸条約を締結して、いよいよ名実ともに東亜の盟主として平和の確立に邁進した。

即ち明治28年、ポーツマス講和会議に際し日英同盟を改訂してイギリスと更に親密を図ったのも、明治40年、フランスと日佛協約を結んだのも、すべて国際的地位の向上に基づき戦後の国際関係を調整して、東亞永遠の平和を確立しようとする我が国年来の大理想に基づくものに外ならなかった。

韓国の併合

また日清・日露の両戦争はともにこの理想に基づき、朝鮮の独立を確保するための正義の聖戦に外ならなかったが、戦後日韓の関係はますます親密の度を加へ、明治43年、遂に韓民の切なる願ひによって韓国併合に関する条約が結ばれ、韓国皇帝は韓民の降伏を増進し、東亞永遠の平和を期するため一切の統治権を天皇に譲られ、天皇はこれを受けて韓国を併合あらせられたのである。

東亜情勢の変化

かくて戦勝による国際的地位の向上に伴なひ、内に於いては諸産業並びに貿易が大いに興り、著しく文化の発達を見たが、外東亜の情勢は決して安泰には推移していかなかった。

むしろ東亜の情勢に関しては、戦前に比し更に注意すべき一大變化が起こりつつあったのである。

アメリカの前進

即ちアメリカ合衆国は既に明治3年、アラスカをロシヤから買収したが、明治31年にはハワイの内政に干渉してこれを併合し、更に同年米西(べいせい)戦争の結果としてフィリピン群島・グアム等を獲得し、次第に東亜に対する関心を高めて来た。

日米関係の悪化

かくて日露戦争までは我が国に大いに好意を示し、ロシヤが満州を占有しようとする気配を示した時、イギリスとともに我が国に好意的援助を与へてロシヤ牽制(けんせい)を策したアメリカが、戦後は急激に我が国に対する態度を変じはじめたのは、要するに當時漸く太平洋及び東亜に領土獲得を志し、支那・満洲に侵略の魔手を伸ばし始めたアメリカにとって、東亜の盟主たる我が国の存在はロシヤ以上に邪魔なものとなってきたからに外ならなかった。

さきに日露戦争半ばにしてアメリカ大統領ルーズベルトが調停の労をとったのも、我が国が戦勝の結果余りに強大となることを恐れたからであった。


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