【海軍さんの歴史教科書】12.大東亜新秩序の黎明


前章「11.大正時代と世界の趨勢」では、中華民国成立の頃から、第一次世界大戦、支那・太平洋をめぐる大戦後の国際関係、軍縮会議とアメリカの日本圧迫など、日本が欧米列強に牙をむかれ難しい局面に対応を迫られてきていることを学びました。

教科書で正しく教わっていない時代ですね。

さて、12章では、満州事変から支那事変、第二次欧州戦争、そして日米開戦へ向かう頃の記述です。では、どうぞ。

12.大東亜新秩序の黎明

(1)満州事変と満州国の成立

支那の排日運動

支那の排日運動は既に久しいものがあったが、これが特に著しくなったのは第一次欧州大戦の頃からであった。

しかもワシントン会議に於ける3・5・5の軍備制限比率の協定と九ケ国条約による日本の対支特殊関係の喪失は支那の欧米依存主義に拍車をかけただけでなく、その排日主義に侮日的傾向をさへ持たしめ、欧米列強、特にアメリカの手先に踊る支那の排日運動は、これから利権回収の運動となってますます熾烈を加へて行った。

国民政府の対外政策

孫文の死後、廣東政府は国民政府と改称し、やがて北伐(ほくばつ)に成功して支那を統一したが、国民政府の対外政策は一つに各種不平等条約の破棄にあった。

しかもその首領蒋介石(しょううかいせき)は国民の関心を対外に導くため、この対外政策を当面急務の問題とし、剰(あまつさ)へかかる政策に伴う國民の排外思想をことごとく我が国に集中せしめ、排日運動を以て国内統一の手段としたのである。

かくて国民政府は学校教育をはじめあらゆる方法によって国民の排日意識を煽動するとともに、米英その他の援助の下に、我が国との間に結ばれていた明治以来の条約をことごとく否定し、進んで我が大陸政策を根底から覆さうとするやうにさへなった。

張父子の排日政策

国民政府のこの排日政策を満洲にあって更に強化したのが張学良である。

かつて我が国の援助の下にあった張作霖(ちょうさくりん)も、満洲に次第に勢力を有するとともに漸く日本の在満勢力駆逐の方針を取ったが、その子学良に及び我が国の反対を無視して国民政府に服従してからは、国民政府の排日政策に迎合して満州を欧米依存の地域たらしめ、もって我が国の勢力を満洲から一挙に駆逐しようとして種々策謀をめぐらしはじめた。

特に最も著しいものはいはゆる満鉄包囲政策であった。即ち張学良は欧米からの借款により満鉄包囲鉄道線を建設して我が南満州鉄道の没落を策し、また葫蘆島(ころとう)に築港を計画して

大連(たいれん)の衰退を計った。

満州事変の勃発

しかも排日はやがて侮日の行動となり、昭和6年に入って幾多の不祥事件が頻発したが、遂に9月18日、正規兵の柳條溝(りうでうかう)に於ける満鉄爆破事件が起こった。

ここに於いて我が国が決然行動を起こして一挙に満洲に於ける排日分子と欧米依存勢力の掃蕩(さうたう)に出たのは、当然の自衛行為に外ならなかったのである。

上海事変と陸戦隊の?(つぶれていて読めません)

事変の勃発と同時に支那内地に於ける排日・侮日の暴行はいよいよ甚(はなはだ)しく

なり、昭和17年1月27日、上海に於いて租界警備の任にあった我が海軍諸戦隊が、突如支那軍の不法射撃を蒙(かうむ)るに及んで遂に上海事変の勃発を見た。

敵の第十九路軍と対峙した我が四千の陸戦隊は、驚くべき奮戦を続けてよくその任務に耐へた。

やがて我が第三艦隊と陸軍上海??(つぶれていて読めません)軍との緊密な協同の下に総攻撃が開始されたが、3月3日には支那軍は完全に租界外二十粁(キロ)の地点に駆逐され、5月5日には停戦協定の成立を見た。

満州国の成立

これよりさき満州事変が勃発するや、満洲各地には地方自治の運動が起ったが、昭和7年3月満洲及び蒙古の一部の住民は溥儀(ふぎ)氏(宣統帝)を執政(しっせい)に迎へて新たに満州国を建設した。

我が国は列国に率先してその独立を承認したが、やがて日満議定書が結ばれて満州国はその領域内に於ける我が国の権益を承認し、我が国は満州国と協力して両国の領土および治安の防衛に当ることを約した。

第4次對欧米反撃戦としての満州事変

この満州事変の勃発と満州国の成立は、明らかに欧米の手先に踊らされた支那の排日政策と、これに迎合して満州における我が勢力の駆逐を計った排日・欧米依存分子に対する膺懲(ようちょう)の鉄槌(てっつい)に外ならなかった。

この事変もまた欧米に対する我が国の第四次反撃戦たる所以である。

国際連盟の干渉

されば事変前、支那の排日・侮日の煽動をこととした米英がこれに対する我が国の当然の自衛手段に反対し、これに妨害を加えることもまた想像せられるところであった。

果して事変勃発とともに国際連盟はその規約に従って日支間の調停を試みてきたが、東亜の情勢に認識不足な国際連盟の立場は我が国の不利を招くことが少なくなく、殊に昭和8年の総会に於いては、いわゆるリットン報告を採択するや否やの採決に於いて、一對四十二票の名誉の敗北を余儀なくせしめられた。

これが米英の陰謀によるものであったことは勿論である。

連盟脱退とワシントン条約破棄

ここに於いて我が国は昭和8年27日、正式に国際聯盟を脱退し、同日畏くも聯盟脱退に関する詔書の渙発を仰いだ。

かくて脱退後の我が国はいよいよ国防の万全を期す必要に迫られ、翌9年12月にはワシントン条約破棄をアメリカに通告し、越えて11月1日には開催中の第二次ロンドン軍縮会議から脱退し、これから我が国は独自の立場と不動の信念とを以て時局に勇往邁進(ゆうおうまいしん)することとなった。

日満議定書

一、満州国は将来日満両国間に別段の約定を締結せさる限り満州国領域内に於いて日本国又は日本国臣民が従来の日支間の条約協定のその他の取極(とりきめ)及公私の契約に依り有する一切の権利利益を確認尊重すへし

二、日本国および満州国は締結国の一方の領土及び治安に対する一切の脅威は同時に締結国の他方の安寧(あんねい)及存立に対する脅威たるの事実を確認し兩國共同して国家の防衛に当るへきことを約す之が為所要の日本国軍は満州国内に駐屯するものとす

(昭和7年9月15日)

(2)満州事変前後の国際関係

経済ブロックの形勢

第一次欧州大戦の後、戦勝国・敗戦国の区別なく全世界を襲った経済上の恐慌は、自給自足主義に基づく列国の経済ブロック形成の傾向を盛にした。

即ち大戦中及び戦後の苦い経験に鑑みて、列国は経済上他国に頼ることなく必要物資はなるべく自国の勢力範囲内に求めることとし、ここに交互に関税障壁を設けて外国製品の輸入を防ぐとともに、多く植民地を有する国はこれを糾合し、植民地の不十分な国は親交国と聯合して、それぞれ経済ブロックの形成に努めはじめた。

「持てる国」と「持たざる國」の対立

而してこの経済ブロックの形成上に於て新たに生じた国際関係がいはゆる「持てる国」と「持たざる國」との対立である。

即ちアメリカ及びソ連はともに必要物資の大部分を優に国内で自給自足できる大国であり、イギリス・フランスはその広大な植民地によって強力な経済ブロックを容易に形成しうる国であった。

かかる「持てる国」に対して日・独・伊のやうに植民地を持たず、しかも人口密度及び増加率の大きな国は明らかに「持たざる國」であった。

現状維持と現状打破

ここに「持てる国」は「持たざる國」の進出に備へて、ヴェルサイユ条約・国際連盟、或はワシントン条約等の現状維持の武器を以て之を圧迫することに狂奔した。

しかし「持たざる國」は国家存立の必要からしてこのやうな現状維持に甘んずることは不可能であり、ここに現状打破の旗をかかげて攻撃を開始しはじめた。

かくて我が国の満洲国の独立擁護と日満経営ブロックの形成、イタリヤのエチオピヤ侵入、ドイツの再軍備・オーストリヤ合邦・チェッコ併合、或はポーランドに対する強硬要求などによって「持てる国」は大なる脅威にさらされるやうになったのである。

ソ連の進出と赤化政策

このやうな国際関係の悪化と関連して注意されねばならないのはソ連の進出と暗躍であった。

ソ連は共産主義の立場から各国の政治・経済等の組織を赤化によって破壊し、然る後、米・英・沸等に代って世界を支配しようとする新たな侵略主義の国家であった。

而してその活動は既に世界の各国を戦慄せしめつつあった。

人民戦線運動

ところがソ連のこの世界政策はヨーロッパに於いては独・伊により、東亞に於いては日本によってそれぞれ重大な打撃を蒙(こうむ)った。

そこでソ連は先づ赤化の目標を日本と独・伊に置き、その目的の達成のためには米・英・沸のやうな国とも提携する、いはゆる人民戦線運動の新戦術を採用して新たな活動を開始し、恐るべき赤化の魔手を世界の各地に伸ばし始めた。

中國共産當の活動

而してソ連は日本を中心とする東亜を赤化するための前提として先づ支那を利用する方針を取り、支那方面に於いて活発な活動を開始した。

かくて支那の中国共産党は単に支那に於いてその勢力を広めるだけでなく、満洲に於ける党員を指導してその勢力を扶植(ふしょく)し、匪賊(ひぞく)を煽動して治安を乱し始めたのである。

日独防共協定の成立

我が国は萬古不易(ばんこふえき)の国体を擁護して国家の安寧(あんねい)を保ち、なほ進んで東亜永遠の平和確保のため、従来とも共産主義に対しては確固たる排撃方針を取って来たが、かかる驚異の増大を鑑みて一層厳重な防衛の措置を講ずる必要に迫れれてきた。

この時既に早くからソ連の赤化政策に悩まれつつあったドイツも昭和8年、ヒットラーを中心とするナチス政権が成立して以来、厳しい共産主義弾圧の政策をとって来たが、昭和11年11月25日、遂に日独防共協定が成立し、日独両国は共産主義の活動に対し、相互に協力して防衛措置をとることを約した。

これは實に我が国外交上に一新紀元を画するものであった。

(3)支那事変及び第二次欧州大戦の勃発

満州国の発展

満州国は帝政実施の気運が熟して昭和9年3月、執政溥儀氏が皇帝の位に即き、国號を満洲帝国と称して順天安民(じゅんてんあんみん)・王道楽土(おうどうらくど)・五族協和を国是としたが、その後、産業の開発、交通の整備、財政の充実など諸政は着々として一新せられ、各国も次第にこれを承認して、その新興国家としての洋々たる前途は正に東亜更生の首途(かどで)であった。

支那事変の勃発

そこで我が国は支那にのその承認をすすめ、また日・満・支の協力による東亞平和の確立を提唱した。

然るに頑迷な支那はいまだに満洲奪還を夢見て抗日意識はますます悪化の一路と辿り、不祥事件の頻発は遂に昭和12年7月7日の盧溝橋事件の勃発となった。

而して我が現地解決・事件不拡大方針の努力も空しく、支那の不逞(ふてい)極まる挑戦によって遂に支那事変の勃発を見たのである。

海軍諸部隊の活躍

即ち北支に於ける日支の交戦はやがて中支にも派及(はきゅう)して、精鋭を誇る蒋介石直系軍三十師の挑戦を受けた我が海軍陸戦隊、8月23日、陸軍派遣の諸兵団が揚子江下流及びウースンに敵前上陸を結構するまで、上海市街にあって寡兵よく大敵を引き受け、在留邦人とその権益を擁護して奮戦した。

また我が海軍航空隊は早くも8月15日、暴風雨をついて壮烈な渡洋爆撃を決行し、南京・南昌(なんしょう)・紹興(せうこう)等の飛行場・軍事使節を爆撃し、その後相次ぐ壮烈極まる空襲によって制空権を完全にわが手に収め、更に我が海軍艦艇は八月以来支那沿岸を封鎖して支那船の航行を遮断し、十月までには支那海軍を殆ど全滅せしめた。

支那事変の原因

このやうに支那事変の勃発は一つにしなの挑戦に基づくものであったが、その原因の主なものは

(一)支那の抗日政策

支那の排日運動はさきに満州事変の勃発となったが、變後もその気勢は些かも衰へることなく、殊に抗日を以て国内の統一、政権の強化、更には軍備の拡張を敢えてするの手段に供しようとする国民政府の政略を「抗日救国」を国民運動の目標とし、排日教育をますます徹底せしめて支那民衆の我が国に対する反抗を大いに煽動したので、抗日・排日・侮日の気勢は日を遂ふて盛となった。

これに対し東亜平安を念願する我が国はあくまで日支提携の親善関係を恢復しようと図ったが、欧米、殊にアメリカの手先に踊る支那はこれに耳を貸すことなく、支那民衆並びに軍隊の日不法行為による幾多の不祥事件が続出して、我が在支法人の生命・財産が脅かされるに及んで、我が国の隠忍(いんにん)も最早その限度に達し、遂に断固たる措置を以て国民政府の反省を促すこととなったのである。

(二)支那の聯ソ容共政策

国民政府は抗日政策を以て国内統一の具に供するとともに、昭和2年以来数次の共産党討伐により一挙にこれを殲滅(せんめつ)し、以て国内統一を完成しようと計ってゐたが、蒋介石がこの政策を捨てていはゆる国共合作の策をとるやうになったのは、實に昭和11年の西安事件以来のことであった。

即ち蒋介石はこの事件以来、東亜赤化のため支那を利用しようとするソ連の謀略にかかって中国共産党と協力し、ソ連の援助の下に抗日に邁進することとなった。

これから後のソ連の中国共産党に対する援助は實に甚だしいものがあり、中国共産党の抗日運動、特にその教育が支那民衆に与へた影響は頗る大なるものがあった。

我が國體と絶対に相容れない共産主義は断固としてこれを排撃しなければならない。

而して東亜赤化のソ連の魔手に操(あやつ)られて容共(ようきょう)抗日に狂奔する国民政府に対しては、あくまでこれを膺懲(ようちょう)してその反省を求めなければならない。

ここに支那事変の原因の一つがある。

(2)蒋介石の自力過信と米英の策謀

国民政府の国内統一が次第に進み行くにつれて、蒋介石は無謀にも各種の利権を米英に與へて多くの借款(しゃっかん)を得、これによって財政の整備軍備の擴充をはじめ軍備に直接関係を持つ交通・産業の発展を図って漸次(ぜんじ)中央集権の實を挙げていった。

殊に昭和10年に米英の援助により幣制改革の名の下に銀の回収と国有を断行して以来、蒋介石はこれを以て航空機及び空軍基地その他の軍事施設の増強に狂奔した。

かくて蒋介石は次第に日本を恐るるにたらずと自力を過信するやうになったが、これは實に東亜に於ける日本の地位を恐れる米英が、東亞に於ける自国の覇権を確保してその野望を満たすために進んで支那に好意を売り、その力を増進せしめて日本に抵抗せしめようとする策謀によるものであった。

これを以て自力により、更に米英の援助によって日本を破ることができると信じるやうになった国民政府の迷妄こそは、支那事変を勃発せしめた最大の原因であった。

第五次對欧米反撃戦としての支那事変

要するに支那事変の原因は、早くから東亞平和攪乱(かくらん)の(かくらん)有力な原因とていた支那の排日・抗日政策と、新たに採用しはじめた容共(ようきょう)政策が、国民政府の自力の過信に基づき、日清兩國に対してますます露骨な挑戦を開始して来たことろにあった。

而してそのいづれにも米・英・ソ連などの欧米列強の援助と東亜侵略の魔手が働き、支那をその手先に踊らしめていたのである。

従って支那事変はこの意味に於いて明らかに我が国の第五次對欧米反撃戦であった。

米英ソ連の援蒋と三国協定の成立

されば支那事変の勃発とともに米英は我が国に対してあらゆる干渉と圧迫を試み、援蒋(えんしょう)行為は次第にその度を増していった。

また、ソ連の對支援助は極端に露骨となり、軍事的・経済的援助をなすのみではなく、更にソ満国境に於いて各種の牽制行為さへ敢へてした。

この時、日独防共協定成立一周年記念日に先立って昭和12年11月6日、新にイタリヤが防共協定に加盟して日独伊三国協定の成立を見たことは、世界の大勢をいよいよ明確ならしめるものであった。

日独伊と米英佛ソ聯の對立

即ち當時既に世界の大勢は、世界を舊(ふる)い体制に維持しようとする米・英・ソ連と、これを打破して世界を新たな秩序に建設しようとする日・独・伊の二大陣営に分かれ、ヨーロッパに於いてはドイツがイタリヤを盟友として現状を維持しようとする英・沸その他の諸国に、ヴェルサイユ条約で失った土地・民族の回収を要求し、東亞に於いては支那事変が拡大するのに伴って、米英の勢力は次第に崩壊しはじめた。

第二次欧州大戦の勃発

ここに於いて米・英・沸等の日・独・伊に対する敵意はますます熾烈となり、前者の後者に対する経済的圧迫と武力包囲は遂に両者の衝突を切迫せしめた。

かくてドイツは先ずソ連と独ソ不可侵条約を結んで世界を驚かせたが、やがてポーランド問題に端を発してドイツと英・沸の間に戦端がひらかれ、次いでドイツのバルカン制圧とともに独ソの開戦となり、イタリヤもまたドイツに加担してここに第二次欧州大戦の勃発を見た。

しかもアメリカの対英・ソ援助の強化は遂に独米国交を戦争の一歩手前まで導いたのである。

世界新秩序の建設と三国同盟

支那事変と第二次欧州大戦とはともに米・英・ソ連の世界制覇のや野心に対する新秩序の建設戦であって、事実上一体の戦争であった。

しかも支那事変に於ける蒋政権の交戦は米・英・ソ聯の支持によって継続されているものである、米・英・ソ連の援蒋問題を除外して支那事変を単独に処理する方法はなかった。

かくて昭和15年9月27日、我が國は日独伊三国同盟を結び独・伊の欧州新秩序建設に呼応して東亜新秩序建設の聖戦目的を明らかにした。

ここに米・英・ソ連の野望を打破してともに世界新秩序の建設に邁進する枢軸の堅陣が、亜欧をつらぬいて出現することとなったのである。

日独伊三国同盟条約(抄出)

第一条 日本国はドイツ國及びイタリー國の欧州における新秩序建設に関し指導的地位を認め且つこれを尊重す。

第二条 ドイツ國及ひイタリー国は日本国の大東亜に於ける新秩序建設に関し指導的地位を認め、且つこれを尊重す。

第三条 日本国、ドイツ国およびイタリー国は前記の方針に基づく努力に付相互に協力へきことを約す。さらに三締結国中いつれかの一国が現に欧州戦争または日支紛争に参入しをらさる一国によって攻撃されたる時は三国はあらゆる政治的、経済的及び軍事的方法により、相互に援助すへきことを約す。

 (昭和15年9月27日)

(4)大東亜戦争

新国民政府の成立

東亜永遠の平和を確立し以て世界の平和に寄与することは、実に八紘爲宇の大理想に基づく我が國不動の国是であって、明治以来の我が対外努力は一つとしてこの精神に貫かれていないものはなかった。

然るに隣邦中華民国はこの平和愛好の我が真意を解せず、徒らに欧米列強の力をかりて我が国に挑戦し、ここに支那事変の勃発を見た。

しかし我が忠勇なる陸海軍将兵の奮戦は瞬(またた)く間にしなの重要拠点をことごとく葬り昭和15年3月、汪精衛(おうせいえい)を中心とする新国民政府が誕生して新支那建設に発足して以来、我が国は日華共同して大東亜新秩序建設に邁進することとなった。

大東亜新秩序建設の決意

而して列国の新国民政府を承認するものは既に11カ国に達し、今や蒋政権は重慶(じゅうけい)のお口に遁入(とんにゅう)して名実共に一地方政権と化し、僅かに無益な抗戦を続けるに過ぎない状態となった。

しかもこの間我が国は日泰友好条約・日佛印軍事協定を結び、昭和16年4月には日ソ中立条約を締結して後顧(こうこ)の憂ひを絶ち、いよいよ大東亜新秩序建設の決意を固めたのである。

暴戻米英の策動

然るに米英は東亜に於ける我が国のこの厳然(げんぜん)たる地位を無視し、東亜を永久に自己に隷属(れいぞく)させようとする頑迷な態度を改めず、極力援蒋を強化して支那事変の解決を妨害するとともに、更に蘭印をそそのかして石油・ゴム等の対日輸出を拒ましめ、また佛印を脅かし、日泰兩國の親交を割(さ)かうとしてあらゆる陰謀と奸策(かんさく)を用ひた。

ABCD包囲陣と資産凍結

しかも米英の妄動は、支那・蘭印とともに我が国の周囲に武力を増強し、いはゆるABCD包囲陣を形成強化して我が國の存立に重大な脅威を加えるとともに、遂に昭和16年7月25日、我が佛印平和進駐(しんちゅう)に報ゆるに在米英日本資産を凍結するといふ暴挙を敢(あえ)てした。

これは明らかに我が国に対する米英の不遜(ふそん)極まる挑戦である。

日米外交交渉

我が国は太平洋の平和を維持し、以て全人類に戦禍(せんくわ)の波及することを防止するため、8ケ月の長きに亙(わた)り隠忍自重(いんにんじちょう)の日米外交交渉を重ねて米英の反省を求め、事態の平和的解決に努めた。

然るにアメリカは毫も我が誠意を顧みることなく、徒(いたず)らに架空の原則を弄(ろう)して我が国の支那からの全面的撤兵、三国同盟からの脱退を求め、新国民政府を否認する等、我が国の存立と対面とを全く無視するの態度に出た。

隠忍自重にも自ら限度がある。

大詔(おおみことのり)の渙発(かんぱつ)

ここに昭和16年12月8日、遂に我が国は敢然(かんぜん)立って暴戻(ぼうれい)飽(あ)くなき米英に断固膺懲(だんこようちょう)の師を起し、畏(おそれおお)くも同日、米英に対し宣戦の大詔は渙発(くわんぱつ)せられたのである。

過去長きに亙る米英の暴虐に対し憤激(ふんげき)を禁じえなかった我が国民は、この大詔を拝して如何ばかり感激し、粉骨砕身米英撃滅の決意に燃え立ったことか。

初戦の戦果

かくて開戦劈頭(へきとう)、我が海軍航空部隊は8日未明、早くも長躯(ちょうく)ハワイ真珠湾を襲ふてアメリカの太平洋艦隊を壊滅に瀕せしめ、またマライ沖のイギリス東洋艦隊を殲滅(せんめつ)して赫赫(かくかく)たる戦果を挙げ、更に陸海軍協力作戦の下に敵の重要拠点たる香港・マニラ・シンガポールを次々と奪取し、爾来雄大無比の我が作戦は着々と成功して、半歳ならずしてフィリピン・西南太平洋諸島、更にビルマの完全占領が実現せられた。

この間我が海軍艦隊並びに航空部隊は敵を随所に捕捉(ほそく)して数十次に亙(わた)る壮烈(そうれつ)極まりない海戦を繰り広げた。

大東亜共栄圏の建設

東亞に於ける米英の旧体制はここに全く一掃せられ、これに代わって大東亜共栄圏の建設は日とともに着々と進捗(しんちょく)し、昭和18年に入ってビルマ・フィリピンが相次いで独立して共栄圏の一翼に参加し、日本の援助の下に印度独立をめざす自由印度仮政府の樹立さへ見た。

かくて昭和18年11月5日、日・華・泰・満・比・緬(めん)の六カ国代表が東京に会して大東亜戦争の完遂(かんすい)と大東亜の建設に就き協議した大東亜会議は、正に曠古(こうこ)の盛観であった。

その席上発せられた大東亜共同宣言は實に大東亜十億の民衆が共存共栄の實を挙げ、以て世界の進運に貢献すべきことを誓ったものであった。

大東亜建設の巨歩(きょほ)はここに堂々と発足したのである。

註)緬(めん)— ミャンマー

曠古(こうこ)–未曾有の

現下の戦局

然るにこの間開戦直後の敗戦から漸(ようや)く立ち直った米英はその豊富な物質的威力をたのみ、アングロサクソンの鬼畜(きちく)のやうな狂暴・残虐(ざんぎゃく)の正体をいよいよ暴露して、厖大(ぼうだい)な犠牲をも顧みず無謀な反攻を開始し、これを激撃(げきげき)する我が陸海軍の敢闘により幾多壮烈無比な激戦が展開せられて、戦局はいよいよ苛烈を加へて来た。

しかし米英が如何に対日反攻に狂奔しても我が絶対不敗の戦略態勢はますます盤石の重きを加へて揺るぐことなく、銃後の団結もまたいよいよ固く、ただ一億決起して完勝に邁進するだけである。

かくて今や戦局は決戦段階に突入してゐる。

日米英開戦に際し陸海軍人に賜はりたる勅語

曩(さき)に支那事変の発生を見るや朕が陸海軍は勇奮健闘既に四年有半に彌(わた)り不逞を膺懲(ようちょう)して戦果日に揚げるも禍亂今に至り尚収まらす

朕禍因の深く米英の包?せる非望に在るに鑑み 朕か政府をして事態を平和の裡(うち)に解決せしめんとしたるも米英は平和を顧念(こねん)するの誠意を示ささるのみならす却て経済上軍事上の脅威を増強し以て帝国を屈服せしめむと図るに至れり

是に於いて朕は帝国の自存自衛と東亜永遠の平和確立との為遂に米英両国に対し戦を宣するに決せり

朕は汝等軍人の忠誠勇武に信倚(しんい)し克(よ)く出師(すいし)の目的を貫徹し以て帝国の光栄を全くせむことを期す

(昭和16年12月8日)

註)膺懲(ようちょう)— 征伐してこらしめること

(い)– よる、たのむ

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