大政奉還:江戸城無血開城した徳川慶喜の英断の裏には 至誠の人 高橋泥舟あり


高橋泥舟(たかはしでいしゅう)は、江戸城無血開城の後明治元年4月に謹慎を命ぜられた徳川慶喜将軍を守護して随い、同年12月には慶喜公の後を追って静岡に移住、廃藩置県の後は二度と世に出なかった至誠の人です。

大政奉還:江戸城無血開城した徳川慶喜の英断の裏には 至誠の人 高橋泥舟あり

将軍徳川慶喜が伏見戦争で失敗して江戸に逃げ帰ったのが、明治元年1月12日。

高橋泥舟は、慶喜公に恭順論を説くべく江戸城に向かったけれど、姦吏に拒まれ城に入れてもらえませんでした。

その後漸く慶喜公に謁見がかない、恭順を力説します。

江戸城無血開城と大政奉還の大いなる立役者なのです。

勝海舟と西郷隆盛が謀って江戸城を明け渡したような記述をみたことがありますが、なんかしっくりこないな、と漠然と思っていた原因は、ここにあったのですね。

徳川慶喜に恭順を説き、自分の妹を嫁がせた山岡鉄舟に西郷隆盛との交渉に向かわせ、世界に類を見ない血の流れない移譲、大政奉還をなした功労者は、何を隠そう、高橋泥舟だったのですね。

すっきり!

有栖川宮電荷が官軍を率いて大挙東下(とうか)せられた時に、山岡鉄舟が駿府で西郷隆盛と会談しましたが、もともとこの使いは、高橋泥舟自らが行くところだったそうです。

徳川慶喜が、高橋泥舟を呼び「将軍 恭順の実を直接朝廷に告げるため、急ぎ駿府に下向(げこう)せよ」と言われたので、その命を受けて駿府に出発しようとしたところ、徳川慶喜は高橋泥舟をまた召して、「伊勢伊勢待て、今そちが出ていったならば、麾下(きか)の武士が余を奪い還す為に蜂起することがないとは言えぬ。しかし、そちでなければ余の命を全うするものなく、さりとて又そちより他に麾下の武士を鎮定する者もない。誰かそちの代わりに使いするものはないか」と言われて落涙されたそうです。

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