森鴎外が東大寺正倉院 御倉守りをした時の和歌「夢の国燃ゆべきものの燃えぬ国」


東京国立博物館で【御即位記念特別展「正倉院の世界―皇室がまもり伝えた美―」】という展覧会が開催されていますね。正倉院宝物と法隆寺献納宝物を見ることができるなんて幸せです。(写真は撮影可能な複製品です)

森鴎外が東大寺正倉院 御倉守りをした時の和歌「夢の国燃ゆべきものの燃えぬ国」

正倉院の起こり

奈良時代(756年)、光明(こうみょう)皇后は聖武(しょうむ)天皇の七七忌の忌日に聖武天皇がご愛用なされた遺品等600点を超えるものなどを東大寺に奉献されました。その品々は東大寺の正倉に収蔵して永く保存されることとなりました。これが正倉院宝物の起りだそうです。

東大寺献物帳

宝物が東大寺大仏に献納された時の目録が展示されていたのですが、美しい端正な字で、その美しさに惚れ惚れしてしまいました。

紙全体に「天皇御璽(てんのうぎょじ)」の印が捺されていて、その上に、目録が書かれています。その文字の美しいことと言ったら、、

巻末には、このように書かれてあるそうです

「宝物はみな聖武天皇の御遺愛品などです。昔のことを思い出し、目を触れるたび悲しみでくずれそうになります。謹んで盧遮那仏に奉納します」

夢の國燃ゆべきものの燃えぬ國木の校倉(あぜくら)のとはに立つ國

さて、展示の最後に森鴎外の「夢の國燃ゆべきものの燃えぬ國木の校倉のとはに立つ國」という和歌が紹介されていました。

森鴎外と正倉院

森鴎外は、晩年大正7年から10年まで、帝室博物館長として毎年奈良に出張していたそうです。

奈良にある東大寺では、毎年秋に正倉院開封の行事が行われ、勅封された扉を開けて風入れをし、その間御物(ぎょぶつ)を一般公開したりします。

森鴎外は御倉守り(みくらもり)として4年間、この行事の監督責任者を務めました。

この和歌は、このお務めが終了した時に発表された『奈良五十首』の中におさめられています。大正10年発表後約半年後に森鴎外は死去しますので、この和歌は森鴎外の最後の作といってもいいでしょう。

勅封とは

勅封というのは、天皇自ら封をなさる、という意味ですが、

具体的には、麻縄を3回十文字に巻き付け、結び目の末端に天皇の宸筆(しんぴつ)御璽が幅10㎝長さ30㎝の美濃紙に包まれて巻かれます。
その部分を竹の皮で包んで結び、更に勅使の封と共に細い麻ひもで結び、更にその上から勅使の封に隅を塗る、いわば割印のようなものです。

後世に伝えるための御努力と御熱意に頭が下がる思いです。

正倉院の勅封(再現したもの)

校倉(あぜくら)造り

正倉院の特徴である「校倉造り」は、断面が三角形をなす校木(あぜき)を組み重ねて4つの壁面を構成した重厚な作りの庫で、聖武天皇の御代以来1300年以上の歳月、沢山の御物を風化から守ってきました。

校倉は木造ですので、火には弱いですよね。

それが、戦争で焼け落ちもせず、雷も落ちず、今日まで無事に守り続けて来たなんて、奇跡以外のなにものでしょう。

森鴎外の詠んだこの和歌も、そのような感慨を詠んだものです。

《燃えゆべきものの燃えぬ国》 日本

《燃ゆべきものの燃えぬ国》日本、

この奇跡を成就したのは、歴代の御倉守りの方々の古代文化に対する敬虔な尊重の心と職務に対する忠実さでありましょう。

木の校倉が永遠に立つことの意味を夢の国と詠った鴎外。

つい最近、悲しいことに首里城が全焼しました。

古代文化に対する敬虔な尊重の気持ちを御倉守りたちは持っていたのでしょうか?

自分の職務に対する意味と忠実さを実行していたのでしょうか?

そんなことも合わせて考えさせられます。

日本の文化歴史を守り抜き紡いでいくことの意義を、私たちは改めて考え、謙虚な気持ちで実践していかなければなりませんね。

参考)

東京国立博物館 御即位記念特別展「正倉院の世界―皇室がまもり伝えた美―」

宮内庁 正倉院について


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