幕末の志士 真木和泉(まきいずみ)の説く《人物》。特に「威儀」についての講話です


前回、幕末の志士 真木和泉の「学問」「士才気」「節義」についての講話をご紹介しました。

ここでは、「威儀」について考えてみましょう。

幕末の志士 真木和泉の説く《人物》。特に「威儀」についての講話です

威儀は正しくあらまほしき技なり。

恐るべきを威といい、のっとる(則る)べきを儀というとありて、

士たるものの疎放軽躁なるは如何にも見苦しきものなり。

固より徳の外に顕るる威厳なれば、威厳なきにてその人の胸中も見え渡るなり。

されば衣冠正しく美麗にかざりたてても、左顧右眄(さこううべん)きょろきょろする人は、

位高くしても、恐るべき容儀なし。

畢竟(ひっきょう)徳なきゆえの事なれど、せめては威儀のみにても心を用いれば、

衣冠に恥をあたえ侍るだけの罪はのがるべし。

よろづの事内外と分かれたる者なるが、

内の徳を養うものは、必ず外の儀を正しくす。

外の儀を正しくするは、必ず内の徳を養う。

動容周旋おもおもしく、拝揖(はいゆう)辞気をおもむろにするは徳を養う為なり。

註)

・「恐るべきを威といい」–この言葉は、五経の一つ『左伝』にある言葉。

『左伝』では、「恐」を「畏」と書いてあります。「畏敬の念」から連想される意味の「畏」と解釈するとわかりやすいでしょう。

敬意を払われる対象となるものが「威」

疎放軽躁–がさつでおっちょこちょい

・左顧右眄–周りを気にしてなかなか決断を下さないこと

動容–動く姿、

・周旋–立ち回り、行動

・拝揖–神道にいうお辞儀・会釈のこと

・辞気(じき)–言葉使い

★私解★

「威儀」は正しくあってほしい心構えである。

敬意が払われる対象となるものを「威」と言い、従うべき作法を「儀」という。

指導者やエリートのがさつでおっちょこちょいであるのは、いかにも見苦しい。

もともと徳が外面に現れるところのものである「威儀」であるので、

威儀がないということは、その人の薄っぺらな内面も透けて見えるものである。

だから、衣冠正しく綺麗に飾り立てていても、きょろきょろして判断ができない人は、

いくら位が高くても、尊敬すべき内容がない。

とどのつまりは、徳がないからなのだけれど、

せめて「威儀のみにても心をかければ」、尊敬を払ってもらえるような立ち居振る舞い、平たく言うと躾が出来ていれば、衣冠に恥を与えるような醜態は避けられるであろう。

内面の徳を養う者は、必ず外面の儀を正しくする。

外面の儀を正しくする者は、必ず内面の徳を養う。

行動が重々しく、言葉遣いやお辞儀をゆったりと自然にするように振る舞うのは、徳を養うためである。

幕末の志士 真木和泉の説く《人物》。特に「学問」「士才気」「節義」について

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