「南京事件」は中国共産党による諸外国勢力を狙った暴動である。~中村粲著『大東亜戦争への道』~


香港の若者たちを殺戮している中 共 。

SNSで拡散されてくる凄惨な映像が、NHKにかかると「暴徒を制圧している警察」となる。

自分たちが行う残虐非道なことを被害者たる相手方を加害者に仕立て、自分たちが被害者であるかのように吹聴する。

これは、この民族のDNAではないか?

香港の若者と警察との闘いは、私たちが苦しめられている南京大虐殺なるホラ話と同じ構造なのではないだろうか。

ここでは、中村粲氏の『大東亜戦争への道』から「南京事件」について紹介します。

「南京事件」は中国共産党による諸外国勢力を狙った暴動である。

英外相チェンバレンは、南京事件直後1927年5月下院に於いて次のように述べています。

南京事件は、コミンテルンの指揮の下に組織され発動された。

その計画は列強をたきつけて、蒋介石氏を困難に陥らせるところにあったと思われる。

この事件のため中国人民は共産党員とソ連の顧問を信用しなくなった。

英国政府としても、南京事件の取り扱いに関して方針を変換する余地がある。

また、米マクマレー公使は、

外国人に対するこのテロと凌辱は広東政府によって公式に支持され指導されていたのみならず、同政府によってあらかじめ準備されていたことに絶対的な確信を持っている。

と3月28日付ケロッグ国務長官あてに報告書が出されています。

いったい、南京事件とは何だったのでしょうか。

この項のみならず、『大東亜戦争への道』を読むと怒りではらわたが煮えくり返ります。

歴史を奪われ嘘を教えられ続けてきた私たち。

だけど、史実に基づき資料を残してくださっている先人の努力がある。

日本を貶めたい勢力のホラをまともに受けて先人たちに唾を吐きかけていないで、

自分たちの祖先の歴史をしっかり学びましょう。

日本人があまりに素直に信じてしまっているので、邪悪な国はほくそえんでいます。

この本のタイトルは少々おどろおどろしいのですが、

書いてあることは、「資料に基づいた史実」です。

中村粲氏は序説の中でこう記しています。

全ての個人間の争いと同じく、双方の主張と立場を過去に遡って突合せ、時間の経過に従いつつ、両者の関係が変化し、推移して来た跡を辿ってみるなら、戦争についての納得いく解釈と評価が得られるはずであり、事実を理論に従属させる政治イデオロギーとしての侵略戦争史観など全く必要としないのだ。

と。

さて、南京事件とは何だったのでしょう。

中村粲先生の「『大東亜戦争への道』第9章 赤色支那への対応」から、南京事件についてみてみましょう。

南京事件~北伐を逆用したコミンテルン~

孫文の急逝の後、国共合作の矛盾が表面化。そして台頭したのが、軍事力をもつ蒋介石。

蒋介石は中国統一のため北伐を主張、蒋介石を総司令とする国民革命軍は1926年(大正15年)7月広東を進発、2年後の1928年6月、北京入城で完成します。

この北伐の過程で、中国は日本をはじめ諸外国の居留民と権益財産に対して多くの無法行為を行いました。

その背後には共産党の策動がありました。

満州事変は、「ある日突然」ではなく、激しい排日と赤色テロの中で準備されていきました。

南京事件~武漢赤色政府成立~

革命軍の進撃は目覚ましく、10月には武漢が陥落。翌1927年(昭和2年)2月、国民党本部と政府の武漢移転が宣言されて武漢政府が樹立。共産党と極左派による赤色政権が成立しました。

これによってコミンテルンの中共を通じての対支工作がいよいよ激しくなっていきます。

中共は蒋介石の北伐を妨害し、武漢政府成立の翌3月には蒋介石から国民革命軍総司令の地位を剥奪しました。

しかし、強大な軍事力を持っていた蒋介石は、1937年3月下旬までには上海・杭州・南京を占領、長江下流の江南地域を掌握。蒋介石の勢力は南京に集結するようになり、南京・武漢両派の対立が深まりました。

イギリス租界実力回収

南京事件は北伐途上に起こりましたが、それに先立って、漢口・九江のイギリス租界奪取事件が発生しました。

漢口にはイギリス、日本、フランスの租界がありました。

イギリス租界が漢口の中心地で、日本の主要銀行や商店もイギリス租界で営業していました。

この漢口のイギリス租界が、1927年1月3日夕刻、支那 国民政府によって実力接収され、引き続いて九江のイギリス租界も1月7日に支那側に接収されました。

この出来事は、イギリスや他の列国にとって一大衝撃でした。

なぜなら、租界は国際条約に基づいて設定されたものであり、それを実力行使で奪取に来たわけですから。

3月21日、広州から北上した革命軍は上海南方4マイルに達し、上海には戒厳令が敷かれました。上海工部局は義勇兵や警察を動員するとともに列国海軍の会陰所を求め、要請に応じて米・日などン陸戦隊が上陸、海軍力として日本11、英11、米5、等31隻が上海に集中し警備をなった。それゆえ、国民革命軍の上海入市に際しては懸念された革命軍と外国軍隊との衝突は発生しませんでした。

南京事件の発生

しかし、上海で回避された革命軍と外国側との衝突は、革命軍の南京進駐の際に発生しました。

ここからは、少し長いですが、南京事件の状況について引用します。

北軍の潰滅の迫った3月22日午後7時、森岡領事は在留婦女子全部を南京領事館内に避難させ、軍艦桧からは荒木亀雄海軍大尉引率の下に兵員9名、通信兵1名が派遣された。

翌3月23日夕刻、北軍の敗兵が南門から南京城内に雪崩込み、領事館門前を横切って下関(シャーカン)方面に退却を開始した。

そこで領事は男子をも領事館に避難させた。

領事館に集合した日本人は約100名。夜に入り、領事館は前門を閉ざして内に土嚢を積み機関銃を備え付け、兵員は小銃を持ち武装して警戒に当たっていた。

3月24日午前5時半ごろ、青天白日旗をかざした革命軍(南軍)が続々入城、領事館前を通過阿して下関に向かった。

掠奪は敗残部隊によって行われるのが常なので、国民革命軍の入城と共に掠奪の危険は薄らいだ。

また、10人の水兵で数千の支那兵に武力対抗することは絶対不可能なので、むしろ革命軍や一般民衆の敵愾心を挑発せぬため、早きに及んで土嚢や機関銃は撤去するほうが有利だと領事は判断した。

荒木大尉もこれに同意したので、土嚢、機関銃を撤去し、且つ警備兵の武装をといて武器を一括格納するとともに領事館正門も門扉を開いた。

ところが間もなく約50名の革命軍正規兵が、制服、制帽に小銃を携え、領事館の事務所、館員の官舎に乱入した。

これを阻止しようとした領事館警察の木村警察署長は直ちに逮捕され所持品全部を奪われ、またかたはらより小銃で狙撃され前腕部貫通傷を受けた。

事務所にいた駐在武官の根本博少佐も金庫の鍵を要求され、拒否すると銃床で腰部を殴打された。

兵士らは事務所から官邸食堂に向け実弾を発射し、呼笛を合図に官邸を襲い、森岡領事の病室(森岡は約1ケ月前から左足脱疽で歩行不能となり病臥していた)をはじめ掠奪を開始した。

以後、自動車、馬車、人力車等運搬具を用意して続々と構内に侵入してきた多数の兵士は、官邸各所を徹底的に掠奪した。「避難者は虎狼に襲われた群羊の如く四方八方に追い回され、婦人は幾回となく忍ぶべからざる身体検査を受け叫喚(きょうかん)聞くに忍びず」と森岡は報告した。病床の森岡領事も寝巻、寝具まで剥ぎ取られ、命中はしなかったが実弾2発の狙撃を受けた。

木村署長、根本少佐はともに銃剣にて刺された。荒木大尉ら兵士10名は軍装のため革命軍兵士を挑発するのを避けて、官邸北側のボーイ室に避難していた。

尼港事件の記憶がまだ生々しい時期でもあり、居留民たちはあくまで陸戦隊が無抵抗主義をとることを懇請し、各兵の階級章とか帽子のような標識を一時取り去るよう森岡領事に懇望した。

森岡は荒木大尉と協議したところ、大尉は居留民の安全のためその望みを容れた。その後侵入した南軍兵士の数は150名から200名余に達し、掠奪は3時間余に渡った。

暴徒と化した支那兵たちは青天白日旗を携え、口々に「日英帝国主義打倒」「華俄一家(ファウォイーチャ(中国とソ連は一家である)」等の標語を呼号した。

そのうち女子供を含む数百名の一般人も押し寄せて掠奪に加わり、床板、便器、空便に至る迄一物も残さずに持ち去った(森岡領事報告。臼井勝美『日中外交史/北伐の時代』、衛藤瀋吉論文「南京事件と日本」、佐々木到一『ある軍人の自伝』)。

その日の夕方、我が官民一同は領事館を引き揚げ、揚子江上の軍艦に収容されたが、領事館の警備に任じていた荒木海軍大尉は事件後の3月29日、軍艦利根艦上にて引責自決を図った。

英米もまた領事館、学校、会社などの掠奪を受けた。英米両国は3月27日午後3時40分より1時間、避難民救援のため江上の軍艦より南京城内砲撃をおこなった。発射弾数は200に達した。

尚、我が駆逐艦の吉田司令は城内邦人の情況が不明で、城内砲撃はその虐殺を誘発する惧れありとして砲撃には参加しなかった(外務省記録「南京事件南軍の暴行状況」)。

英米軍艦の砲撃による死者は12名、傷者は20名であった(支那外交部調査)。

結局南京事件による各国死者は日本1、英国2、米国1、伊国1、仏国1、デンマーク1の計7名で外に2名が行方不明になった。(外務省記録『南京に於ける支那兵の暴行及び掠奪事件』)。

南京事件は、革命軍の中に入り込んだ中共分子による仕業であることは疑いの余地がない。

事件がソ連の指令の下に引き起こされたと考えられる証拠の一つは、南京事件の前年1926年11月に、コミンテルン第7次会議の決定に基づいてモスクワが北京駐在ソ連大使館付武官に訓令した秘密文書です。

その文書は国民党右派が入手したのですが、その訓令の第5項には、こう書いてありました。

「あらゆる方法を用いて国民大衆による外人排斥を引き起こさなければならない。

この目的のためには、各国と大衆を武力衝突させなければならない。

これによって各国の干渉を引き起こすことができたならば、更に方法を選ばず、それを貫徹すべきである。

たとえ、掠奪や多数の惨殺をもたらすものであっても構わない。

大衆が欧州の軍隊と衝突した時には、その機会を決して逃してはいけない」

『蒋介石秘録』

この訓令こそが、南京事件の背後にあるものの正体でした。

国民革命軍と大衆と外国との間に衝突を引き起こして蒋介石を失脚させ、国民党右派を崩して意に共産化を図る

これが、コミンテルンと支那共産党の計略。

南京事件は、このような情勢の中で発生したものでした。

大東亜戦争への道

私感

20万人虐殺だ、30万人だ! と散々言われて責められ続けている南京大虐殺というもの。

ここで紹介した「南京事件」と同じものだとはとても思えなくて、

違う時期に起こった違う事件かなぁ、、?

と何度も年号をみるのですが、同じものなんですよね。

えっ?

南京事件って、日本領事館が支那人に襲われた事件だったの?

そして、その背後には共産化をもくろむコミンテルンの謀略があったって?

私たちは、いかにプロパガンダにやられているか!(怒)

この『大東亜戦争の道』は、記録に基づいた記述なんです。

貴重な現代史の本だと思います。

他にも尼港事件、済州事件などの状況も、記録に基づいて書かれています。

支那がどれほど汚い手を使っていたかが、よくわかります。

このサイトでもご紹介している「海軍兵学校練習兵用歴史教科書」の12章 の支那事件の項では、このような記述があります。

而して我が現地解決・事件不拡大方針の努力も空しく、支那の不逞極まる挑戦によって遂に支那事変の勃発をみたのである。

話は逸れますが、

侵略戦争だ!と中 共が声を荒げ非難続けている当時の大陸情勢についても、「それ、ホント?」と疑問を投げかけざるを得ない史実はたくさんあり、歴史を学ぶ努力をしてこなかった私たちの隙をついて攻撃が行われているという見方もあながち間違いではないでしょう。

世界情勢がきな臭くなっている今だからこそ余計に、この中村粲先生の『大東亜戦争への道』は読んだほうがいいと思います。

思考回路が同じ!そう思うだけで、かの国に対する対応策にヒントができますし、身構えることができます。

香港に今起こっていることは、中 共にとっては いつものこと。

平常運転です。

それにどう対峙していくか、私たち国民一人一人の覚悟が求められています。

決して他人事ではありません。

最後に、中村粲先生のこの2つの言葉をご紹介して締めたいと思います。

大東亜戦争とは

筆者は大東亜戦争の構造を分析し、遡源することによって、門戸開放主義をめぐる日米抗争及び共産主義との闘いという2つの大きな筋道を探り当て、この二大潮流が合して高まる極頂点に大東亜戦争を定位することを得た。

歴史とは

他国の「納得」や「理解」や「承認」を得て書かれるような歴史は、民族亡滅の墓標としては残ろうが、国家民族の正史として人々の魂と記憶に留まることはないであろう。

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