「菊作り大根作りにみる人づくり」(細井平洲『嚶鳴館遺草』)についてのお話です


細井平洲(享保13年(1728年)-享和元年(1801) )は、上杉鷹山が師と仰いだ江戸時代の儒学者です。

弟子には「寛政の三奇人」の一人 高山彦九郎がいます。

また、その死後も吉田松陰や西郷隆盛等幕末の志士にも深い影響を与えました。

西郷隆盛(文政10年(1828年)-明治10年(1877年)は西郷南洲と号していましたが、西郷隆盛は細井平洲に傾倒していて、「南洲」というのは「南の平洲」になりたいという気持ちから名付けたそうです。

『嚶鳴館遺草』のなかから、教育係を選ぶ時にどういう人を選べばいいかについてのお話をご紹介します。

原文では取っつきにくいので、渡部五郎三郎先生の御私解をご紹介します。

傲(おご)りは立派な徳目ではないと承知していながら、自分一人が物知りと考え、人を見下し、古の賢人や先輩を無暗に中傷するような人で、本当に賢い人であったならば、自分が正しいと思っている道理も、若しや心得違いではないかと心配することこそ謙譲の徳でありますのに、大したことでもないことを大仰に(おおぎょう)に吹聴し、人を驚かすことが自分の手柄と考えるような人の事で、昔の人は学に背いた人と申して、最も不都合な人としているのであります。

このような軽薄な人が種となりますと、その見まね聞きまねで、何ら悪い心のない人も、世の中の持て余し人になることがよくあります。

種は一粒でも実りますと千種万粒にも増え、大変なことになります。

しかしまた、行いが正しければ師匠はそれだけでよいとは言えません。

師匠と申すのは、人の質問に答える役目であって、十の内三つ四つは判らないことがあっても残り六つ七つ位は答え教えることが出来なければ、人の信頼は生まれませんので、広く学び何でもしっているようでなければならないことは勿論であります。

唯博識多才だけで行いの伴わぬ人を用いますと、貞宗・政宗が如何に名刀と申しましても、抜身のまま腰に差すのと同じで、用心していてもいつか自分を傷つけることになります。

ですから、まず素志素行(そしそこう/平素の志や行い)が立派な人を教師にお用いになべきであります。

素志と申しますのは、幼い時から抱いております志をいつまでも持ち通していることであり、素行というのは、幼い時から日頃の行いが正しく大人になってもその行いが変わらない人を素行ある人と申して、本物の人物であります。

しかし、少年の時は良くない所業もあったけれども、成長に伴って立派な師や友の助けを受けて志や行いを改め、徳を備えた人になった例も沢山ありますので、君主が広く人材を求められるときには、その若い時の過失を取り上げないということではありませんが、世間一般の人情として、この人には前にこのような不都合があると数え上げて、人材を求めることを妨げる人もありますので、まずは癖のない人を師匠とし、その人を信じ仰いで素直に教訓を受けさせることができるようにすることが当然で、無理に押し付けるわけにはまいりません。

また、平素行状が正しいという人にも考え方が窮屈で偏った人は、人の師としては向いていません。

なぜかと申しますと、人を育てる心持(こころもち)は、菊好きの人が菊を作るのとは違って百姓が野菜大根を作るようでなければなりません。

菊づくりの好きな人は、花の姿が見事にそろっている菊を育て咲かせたく、多くの枝をもぎ取り蕾(つぼみ)をつみすて、無暗に伸びさせず、自分の好みに合わない花は一本も残しません。百姓が野菜大根を作るときは、その一本一本を大切にし、同じ畑の中にはよくできたものと不出来のものとあり、形が揃っていなくても、それぞれ大事に育てて、すべて食用に供することができるようにするものです。

この二つのやり方をよく弁(わきま)えておかねばなりません。

人の才能をいうものは、それぞれ違っているもので一概に自分の思い通りに育てるといった窮屈な考えでは、教わる人もついてゆけぬものであります。

頭の良い人、悪い人、要領のいい人、悪い人、それぞれに育て上げて、有能な人にさえすればれぞれに使い道があるという考えのない識量の狭い人は、人を育てる師の職には向いていません。

名君 上杉鷹山を導いた 細井平洲の「嚶鳴館(おうめいかん)遺草」を渡部五郎三郎先生が現代語にしてくださった本
本棚に手書きの本を見つけました。 渡部五郎三郎先生の自筆の本。五郎三郎先生の講義は、いつも先生の自筆の本で学んでいたのですが、...

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