明治維新後の為政者側の腐敗を象徴するような事件「尾去沢(おさりざわ)銅山の強奪」


西郷隆盛(西郷南洲)が、明治維新がなったのちの薩長の横暴をはじめとする世の中の乱れ・争いを心の底から嘆いていたというお話を、先日書きました。

上に立つ者の心構えについて(西郷南洲)

西郷南洲 上に立つ者の心構えについて (南洲翁遺訓)
西郷隆盛の『南洲翁遺訓』から、政府の高官や上に立つ者の心構えについてご紹介します。 西郷南洲 上に立つ者の心構えについて ...

幕末から明治10年の西南戦争に至る迄、政体変更にかかわる様々な争いがあり、失うにはあまりに惜しい多くの才能ある人材が命を失っていきました。

大きな代償を払って成立した明治政府。

新たに権力を握った人々が傲慢に振る舞ったり贅沢したりして初心を忘れ人間的に堕落していく姿をみて、西郷隆盛(南洲)は、天下に申し訳ない、亡くなった方に申し訳が立たないと、嘆き悲しみました。

当時、どのような腐敗があったのでしょう。

代表的なものの一つに、秋田の豪商 村井茂兵衛から奪い取った「尾去沢(おさりざわ)銅山の強奪」があります。

一言で言うと、井上薫が村井茂兵衛という町人から、尾去沢銅山を強奪した事件です。

この事件の顛末は、『明治裏面史(上)』(伊藤痴遊著)に詳しく書いてあるのですが、読んでいると、此処まで無体なことをするのか、と、もう、ホントにがっかりします。

簡潔に説明しようと思ったのですが、簡潔にすることが難しいので(^-^;、一部引用することにします。

維新の際に南部藩は欧州連盟に加わって、一度は官軍に反抗したがそれはほんのしばらくの間で、やがては天下の大勢を覚り官軍に帰順することになった。

けれども一度は官軍に対抗して兵を動かした廉(かど)があるから、今までの所領二十万石から七万石減らされて、十三万石にされてしまった。その上に、冥加金(みょうがきん)と称して朝廷へ70万両の献金を命じられた。

元来があまり豊かな大名でもなく、まだその前後に於いて相当に無駄な費用も費やして戦争に負けて降参した後の事で、70万両という大金の調達は容易に出来るはずがない。

しかしながら官軍は勝ち誇った勢いでこれを命ずるのだから、何とかして都合しなければならない羽目に陥った。方策が尽きたのちに村井茂兵衛を呼び出して、この調金の周旋方を命じたのである。村井は尾去沢銅山の関係で外国人と取引をしていたから、元に大阪には同の販売店を設けてあって、兵庫にいる外商とは年々少なからず取引をしていたのだ。その関係を幸いに藩庁のほうからは外国人によって負債を募ってもらいたいというのであった。

村井の身にとってみればこんな迷惑はないので、実は辞退をしたいのだけれぼ、旧藩主という関係もあれば、又銅山採掘の権利を与えてもらった関係もある。それらの事情から拠所(よんどころ)もなく引き受けて、之から外債募集の奔走をはじめたのだ。ところが幸いにしてそれに応じようという者があって、予期したよりは面倒も少なく仮契約が結ばれた。

その契約のうちに破約をするようなことがあれば、一方へ対して金二万五千両の違約金を提出するということを書き加えてあった。これは外国人のほうにしてみても、今手元に70萬両の金はない、本国へ取り次いでからの事であるから、そんな手数をかけたのちに違約などをされてはたまらないからこういう契約をしたのも無理はない。

また村井のほうにしても契約しておきながら本国へ照会したらできないというようなことを言われては藩へ対しても済まないと思って、こういう契約書を取り交わしたのだ。

村井から藩へ、首尾よく調金の運びになったという報告があると、すぐに藩臣の主だったものが集まって、その外債償還の方法についての相談に移った。

ところが、このことを村井に申し付けたときは、ほんの5.6人の重役が殿様と相談のうえでやったのだが、いよいよ借り受けるとなれば藩の全体の債務になるのであるから、従って藩臣の頭にもその幾分は割り付けられてくるのだ。

ここに於いて議論は忽ちに沸騰して、幾日たっても容易に決まりそうでない。外国人のほうからしきりに喧しくいってくる。そのうちに議論は、この借金を断るということに決定した。

それはどういう理由かというと、

「苟も南部藩ともあろうものが、どんなに窮したとしても外国人に借金してまで、この冥加印金を納めなければならないというのは、どうにも藩の恥辱であって、そのようなことは先祖の位牌へ対しても出来ない。藩士が総がかりになって奔走したら、どうにか調金もできるだろうし、また場合によっては政府へ願って、一時に納金はしなくても漸時に納金するようにもなろうから、、」というので、終に外国人のほうは断ることに決したのである。

『明治裏面史(上)』

結局、村井茂兵衛は個人で外国人に違約金を払う羽目に陥ってしまいました。

それに加えて、明治四年に廃藩置県が決まった際に大蔵省が調査した際、南部藩から村井茂兵衛への借用書が出てきました。

当時の風習では、町民が藩主にお金を貸してそのお金を返してもらった際、「奉内借(ないしゃくたてまつる)」と認めた書類を渡したそうです。

お金を返してもらったのに、「借りた」という表現は、当時の町人と藩主の関係を物語っていますよね。

大蔵省は、こういう風習がわかっていたのにもかかわらず、「村井が南部藩に借りたお金なのだから、政府に返せ」と命じたのです。

ひどい話。

どんなに説明しても受け入れてもらえず、司法卿 江藤新平の出した「地方人民にして官庁より不法の迫害を受くる者は進んで府県裁判所もしくは司法省裁判所に出訴すべし」という達しを頼りに国に直訴するという事態にもなりました。

江藤新平井上薫を追求するのですが、征韓論をめぐって江藤新平自身が政府を去るなどもあって、結局うやむやになってしまったそうです。

村井茂兵衛は、結局銅山を井上薫に強奪され、明治13年には三菱会社の手に渡ってしまいます。あきらめきれない村井茂兵衛は東京城東裁判所に鉱山下げ戻し指令に対する不服の訴訟をしますが、長州閥の政治家が全盛を極めた時代の事、有耶無耶のうちに葬り去られてしまいます。

村井茂兵衛は見る影もない有様になり、遺族は劣悪な環境で苦しんだということです。

維新の裏には、こういう酷いことが沢山あったのでしょうね。

参考)
明治裏面史〈上巻〉

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