佐藤一斎先生に届いた長い手紙の差出人、大塩平八郎は求道の人、義憤の人でした。


佐藤一斎先生と、ある有名な人とのつながり、そして、その人の生き様について。

天保8年(西暦1833年)、佐藤一斎先生のもとに、ある一通の手紙が届きました。

差出人は、大塩中斎という地方役人。

長い手紙には、自身の半生に於ける3つの転機についてと、大体次のような内容が述べられていました。

純真な内面の要求にを実現すべく儒学を学んだが、単に知識を得ても、自分の欠陥を克服したり正しい人格がつくられるようには思えなかった。

そんな折、呂新吾の『呻吟語』を手に入れ熟読共感し、良知(りょうち)学(りょうち)である陽明学へ導かれた。

自己の心性(しんせい)を養い、少しでも人格を高めるよう努力したい。そのために、教えを請いたい。

そのような内容でした。

大塩、と聞いて、連想しました?

そう、大塩中斎というのは、大塩平八郎のことです。

「大塩平八郎の乱」と歴史で文言だけは習った人も多いと思います。

大塩平八郎の乱という、その言葉だけをみると、凄い激情型の荒っぽい人なのか、と思ってしまいたくなりますが、そんなことはなかったのですね。

確かに乱を起こすことを決意決起した際、それは益無きこと,命がなくなるだけであると諫めた愛弟子 宇津木共甫(うづききょうほ)を刃にかけた辺りは、なんとも切なくやるせない。

大塩中斎は、道を求めた人でした。

幼い時は気性も荒かったそうですが、読書家のおばあちゃんが買っておいた古本を見つけて詠み方を習いそこから猛烈に読書をし勉強したそうです。そうした中で、気性も穏やかになっていったといいます。

大塩中斎は木っ端役人だったようですが、かなり優秀で豪傑な手腕を発揮し、大塩中斎でなければ解決できなかったであろう事案も沢山ありました。

しかし、世の中は醜い。

役人たちはコメの相場とか金勘定に余念がなく、世の中をできるだけ狭く利口に立ち回る方法ばかり考えており、そんな世間の様子に不安と戦慄を覚え、学問をしなければならないと、内なる欲求に駆られて儒教の門をたたきます。

24歳の頃のことです。

丁度その頃、呂新吾の『呻吟語』に出合い、思索を深めていきます。

役人としても、相変わらずいい仕事をしていて、評判も高くなっていきました。

38歳の時、大塩中斎の上司 高井山城守(たかいやましろのかみ)が老齢で引退するのを機に、大塩中斎も役人をやめ、在野の高士として育英事業に専念。

『洗心洞箚記(せんしんとうさつき)』が出版されます。

さて、この頃、日本の近海に外国の脅威がひしひしと迫っていました。

内政では、文政の終わりから不作、暴風雨などの天候不順で、米の値段がべらぼうに上がり始め、失政が続きます。

文政7年2月には毎日雨が続き、気候も寒く、5~6月になっても冬のような寒さでした。

7月には大暴風雨が全国にわたって襲来。

稲も育たず、麦も稗(ひえ)も茂りません。

各地の交通はストップし、旅人の往来も途絶え、田畑も荒れ、

米も高騰し、死体がいたるところの道端に転がっていたそうです。

このような内憂外患に際して、幕府や朝廷は腑抜けだったようです。

そこで、大塩中斎は、民族精神の頽廃を深概したそうです。

この年の12月に町奉行が極端な米の積み出し制限令を出し、京都30万の内5万6千人が餓死したと言います。

この時期の役人の無体ぶりに大塩中斎の熱血が「満肛に怒濤」します。

農民を救うために、大塩中斎が命を懸けてやったこと!

最終的には決起し、密告され殺されれしまうのですが、それに至るいきさつは、知って言うべきだと思います。

また、決起に際しての「檄文」はすごい。

。。

。。

。。

このあたりについては、また日を改めて書ければいいな、と思います。

すみません。

ちょっと疲れてしまいました(^-^;

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