瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ:崇徳院


百人一首に収録されている御製(天皇の和歌)をみると、穏やかに人生を送られた天皇っていらっしゃるんだろうか、と思います。

皇位継承をめぐっての権力闘争も激しいし、貴族や武家に巻き込まれての闘争も激烈です。肉身間の憎しみ・わだかまり・やるせなさ・切なさ。

一般の私たちの人生よりも、苦悩や苦しみ、耐え忍ぶことのできないほどの艱難が多いという感想を持つようになるのは、私ばかりではないと思います。

この崇徳院の御製は、巷の本では、「別れざるを得なかった恋人たちが、いつかまた必ず会うことができると思う」という熱烈な恋の歌だと説明されている事例が多いのですが、崇徳院の人生を辿れば、まったく別な意味があるという説も説得力を増して心に迫ってきます。

瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ

(崇徳院)

註)現代の「滝」は、当時は「垂水(たるみ)」といいました。

註)「滝川」– 滝のように流れのはやい川

註)「瀬」–川の中で他よりもやや浅くなっている箇所、又は流れの速くなっている場所

★意味★

川瀬の流れが速いので、岩にせき止められた急流が二つに分かれてもまた一つになるように、別れたあの人とも、いつかまた会いたいと思います。

崇徳院(1119-1164)

平安時代末期、鳥羽院の第一皇子。

ひいおじいさんの白河法皇に可愛がられて5歳の時に第75代天皇に即位しますが、それはまだ20歳だった崇徳の父 鳥羽を退位させてのことでした。

それゆえ、鳥羽院は、崇徳をよく思わなくなります。

白河法皇がなくなると、23歳の崇徳天皇は3歳の実弟に譲位。鳥羽院が暗躍したとかなんとか。。弟は近衛天皇となります。しかし、近衛天皇は17歳で崩御。

すると、今度は鳥羽院の一番下の息子が後白河天皇(当時29歳)として即位されます。

この後、崇徳院は後白河天皇と皇位継承をめぐって対立。保元の乱が起こります。

崇徳院は藤原忠道(七十六番歌)により武力で拘留され、讃岐(現在の香川県)に配流されます。

讃岐に流された後45歳で没するまで仏教に深く傾倒し、五部大乗経の写本づくりに専念しました。

そして「保元の乱」で亡くなった戦死者の供養を生涯お続けになりました。

このように功徳を積まれた崇徳院を、人々は四国の守り神としてお祀りするようになります。

時は下って、

崇徳院崩御から700年後の慶応四年(西暦1868)、明治天皇はご自身の即位の礼に先立ち、勅使を讃岐に遣わして崇徳院の御霊を京都に帰還させたそうです。

そうしてできたのが、京都にある白峯神宮です。

ふぅ、、、

すごい。。。

あれっ?

「われても末に逢はむとぞ思ふ」

。。。

逢いたいと願ったのは、恋する女性にではなく、

争わざるを得なくなった近しい人々にかもしれません。

単純に言うと、おじいちゃんに可愛がられて自我のまだ出てこない5歳の時に天皇に即位したばかりに、実父に目の敵にされ、生涯を通じ弟たちとも争うようになってしまったということですよね。心の置き場をどこにもっていらしゃたのだろうと、、、波乱の人生にため息がでます。

崇徳院を追放した藤原忠道(ただみち)は、この直前の七十六番歌で、上皇になられた崇徳天皇をお祝いする喜びの気持ちを詠んでいます。

わたの原漕ぎ出でてみればひさかたの 雲居にまがふ沖つ白波

この歌は、すがすがしく心あきらかに、大海原に漕ぎ出すような爽快感を読んでいると評されています。

元歌(もとうた)

この歌には、元歌があります。

大太刀(おおだち)を垂れ佩(は)き立ちて抜かずとも 末は足しても遇はむとぞ思ふ

(武烈天皇 /『日本書紀』)

★意味★

「腰に垂らした大太刀を抜かなくても、いづれは思い通りにあおうと思う」

影媛(かげひめ)という女性をめぐってやり取りした歌だそうです

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