徳川慶喜が大政奉還をなしえた背景には、水戸光圀、徳川斉昭の訓えあり


水戸の偕楽園では、梅まつりが始まりましたね。新聞にも大きく案内が載っていました。

「古の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能く楽しむなり」

偕楽園は、水戸藩第9代徳川斉昭(なりあき)が作った庭園です。

広く人々にも楽しんでもらいたい、みなで梅を愛でたいという想いがあって、庭園も開放されていたそうです。

「学問に親しめば梅が開き、学問を廃すれば梅が開かなかった」と中国の故事にありますが、徳川斉昭は人材育成にも手腕を発揮した名君ですよね。

「游於藝」(芸に游ぶ)は、徳川斉昭が愛した言葉 
論語に「道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に遊ぶ」という教えがあります。 「道」「志」「徳」は、なんとなく意味はわかりますよね。...

大政奉還をした徳川慶喜は、水戸の殿様

さて、

徳川斉昭の御子息が、大政奉還をした第15代将軍 徳川慶喜(よしのぶ)です。

徳川慶喜(天保8年/1837)は徳川斉昭の7番目の男子として生まれ、水戸藩校 弘道館で学びました。

弘道館では、儒学・礼儀・歴史・天文・数学・地図・和歌・音楽・剣術・槍・柔術・兵学・鉄砲・馬術・水泳等沢山の科目が教えられていました。そこで、文武両道を学び精神を鍛えていたのですね。

加えて、偕楽園の性質からみるに、民を大切に思う気持ちを持っていらっしゃったのではないでしょうか。

なぜなら、偕楽園という名前は、「孟子」の

「古(いにしえ)の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能(よ)く楽しむなり」

という一節からとったそうで、お父さんの徳川斉昭は

「是れ余が周と楽しみを同じくするの意なり」

と言っていたそうですから、当然その思想は受け継いでいると思うのですよね。

水戸の偕楽園にある好文亭のふすまの絵が美しすぎる!
庭いっぱいに咲き誇る梅で有名な水戸の偕楽園の中に「好文亭(こうぶんてい)」という建物があります。 水戸藩第九代藩主徳川斉昭(と...

大政奉還、無血開城、、

大政奉還、無血開城、、

ふぅ~~ん。。。

と思いつつ、

なんでかな?

と漠然と思っていましたが、

徳川慶喜のお父さんが水戸藩 徳川斉昭だということを知り、

且つ水戸の偕楽園・弘道館に触れ、

加えて、

水戸光圀の遺訓

我が君主は天子也 今宗室は将軍家也

をしるにつけ、

大政奉還が行われたこと、江戸城を無血開城したこと、

この偉業は、徳川慶喜公だからこそできたのだろう、という想いを強く持つようになりました。

大政奉還の上奏文を起草した山田方谷

そしてまた、

徳川慶喜には、すごい人がついていたのですよね。

ついていた、というのは語弊があるかもしません。

大政奉還の上奏文を起草したのは、山田方谷(やまだほうこく)という陽明学者。

山田方谷は、上杉鷹山を上回るという評判の高い財政改革者でもあり教育者でもありました。

山田方谷という人については、意外と知られていないのではないかと思います。

山田方谷は、上杉鷹山を上回る財政改革者と評価されています。

貧乏板倉(備中松山藩)と言われた藩の財政を僅か7年で財政再建し、教育改革、軍制改革などを行った政治家、財政家ですが、残念ながら私たち現代人にはあまり知られていません。

この山田方谷について、改めてまとめてみたいと思います。

お楽しみに。

今回は、これにて。<(_ _)>

至誠惻怛(しせいそくだつ):山田方谷(やまだほうこく)

至誠惻怛(しせいそくだつ):儒学者 山田方谷が河井継之助に贈った言葉
前回、大政奉還をした徳川慶喜という人物を育てた水戸藩の思想についてお話し、 大政奉還の上奏文の原案を書いた山田方谷という人につ...
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コメント

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