聖徳太子や大化改新の頃のお話


万葉集を編纂した大伴家持は、国の軍を司る大伴という氏族の家系でした。

★大伴家持に国を守る歌があるのは、大伴氏が軍事をつかさどる家系だったから。氏族制度について

大伴家持に国を守る歌があるのは、大伴氏が軍事をつかさどる家系だったから。氏族制度について
日本には、昔「氏族(しぞく)制度」というものがありました。 これは、皇室を中心にして大小多数の氏族によって構成されていた社会組...

氏族制度

この、ある一族が代々同じ職務を果たしてきた制度を氏族制度(しぞくせいど)と言いますが、この氏族制度によって、氏族内の団結は固くなり、皇室に対する忠誠も深くなりました。

しかし、

月日が経つにつれて制度疲労を起こすのは、いつの世も同じですね。

朝廷における重要な地位や官職は特定の氏族の独占状態になり、これらの豪族の中には広大な土地を持ち、権力を巨大なものにしたものが現れました。

蘇我氏物部氏は、その代表的なものです。

第31代 用明天皇(ご在位:西暦592-928)の時に物部氏が滅んでからは、蘇我氏の独壇場。

かなり悪さをしたらしいです。

当時、大陸には随が権勢を誇るようになり、半島では新羅の勢力が強くなって、第29代 欽明天皇の御代(西暦539-71)には任那の日本府は閉鎖に追い込まれてしまいます。

第10代 崇神(すじん)天皇の御代(西暦紀元前97-紀元後30)にできた日本府の閉鎖です。

聖徳太子

このように、内政も海外政策も問題が多くなり国力が落ちて来た時に現れたのが!!!

聖徳太子です。

聖徳太子は、第33代 推古天皇(在位:西暦592-928)の皇太子です。

聖徳太子は「冠位十二階」を定めました。

官職世襲をやめて、人材を広く登用したのですね。

そして、「憲法十七条」を制定。

大義名分を明らかにして豪族の専権を防ぎ、官史の道を説き諭して、国政を刷新しました。

また、

聖徳太子は隋に小野妹子を派遣しました。

日出づる處の天子、書を日没する處の天子に致す。恙(つつが)なきや。

という言葉は、あまりに有名ですね。

隋と対等の自主外交を確立させ、留学生をおくって支那の文化を取り入れ、日本の国を強くすることに力を注ぎました。

聖徳太子は、国家革新の事業の途中で亡くなってしまうのですが、その後 蘇我馬子が権力を握り、孫の蘇我入鹿に至っては、とても天皇の臣下という自覚がないほどの無礼千万な行為し放題でした。

それを見かねた 第34代 舒明天皇(じょめいてんのう)の皇子 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、中臣鎌足(なかとみのかまたり/藤原鎌足)と組んで、第35代皇極天皇(こうぎょくてんのう)4年(皇紀1305)に、蘇我入鹿を殺し、蘇我氏を滅亡させました。

大化改新

そして、第36代孝徳天皇は、中大兄皇子を皇太子にし、中臣鎌足を重用して、天皇自ら新政を行うことをお示しになり、日本で初めて元号を建てました。

その元号を「大化」と言います。

翌、大化2年に「大化改新」の詔を発します。

「大化改新」では、
  1. 公地公民(豪族の私有地を公地に)
  2. 班田収授(戸籍をつくり6歳になると男女問わず田を与え死ねば朝廷に返す)
  3. 新たな税制をすべての国民に
  4. 官職世襲の制度を改めて、広く人材を登用

等の改革がなされました。

画期的な内容ですね。

私感

穏やかで国威のある世の中が続いた後に、天皇を敬わず権力をほしいままにした蘇我氏が現れる。

それを滅ぼした(誅した)中大兄皇子。そして大化改新。

後の世でも、

平安の世の終わりには、藤原道真が出てきて、天皇よりも自分が偉い、と権勢を振るい

そして滅ぼされる。

同じことが歴史には起こるとは、よく言ったものですね。

余談ですが、

(中臣鎌足=藤原鎌足)→→→(藤原道長)→→(近衛文麿)

という家系です。

いろいろ想像してしまう。深い。

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