師たるべき人は、志行い正しく偏見固執なく博識、治乱興亡人情事変に詳しく、善く導くことのできる人であるべき。:細井平洲


部下を教育してくれる師匠を雇う際にどういう人にお願いすべきだろうか、という殿様の質問に答えた細井平洲の教え

人を育てるのは、菊を育てるようにではなく、大根や野菜を育てるようにするのがいい、というお話の後に続く教えをご紹介します。

「菊作り大根作りにみる人づくり」(細井平洲『嚶鳴館遺草』)についてのお話です
細井平洲(享保13年(1728年)-享和元年(1801) )は、上杉鷹山が師と仰いだ江戸時代の儒学者です。 弟子には「寛政の三...

師たるべき人は、志行い正しく偏見固執なく博識、治乱興亡人情事変に詳しく、善く導くことのできる人であるべき。:細井平洲

色々お考えになり、いよいよ御家中に学問を勧めなければならないとして、それにふさわしい儒者を雇って指導させたいが、当世の学問と言ってもそれぞれ流派があって、どれが良いか決め難いので、朱学・仁斎派・徂徠派の三派の中でどれが良いか決めよとの仰せ、承けたわまりました。

しかしながら、私のようなものが先賢先輩の学術の是非を決めるようなことは非常に難しい事であります。

まずもって独立したが学問の一派を立てたほどの人は、どの方もその時代の豪傑とも申すべき人で、それぞれの所信をお持ちですが、聖人でない以上、完全というものはありえず、それぞれが特徴や得失があることは勿論であります。

ですから、その良い点を用い、悪い点を取らないようにすれば、利益のない学というものはありません。

その門流門流で、其所で教わった学を大切に思い尊ぶことはもっともなことであります。

しかし何流を学ぶ人も、充分学問した末でもなく未熟な段階にあるのですから、一般の人はそこで与えられた本だけを読み、その師の言葉だけを信じて、広く学問の是非得失を考えることなしに、自分が習った流儀の外はすべて間違っていると考えるようなことは、昔も今も同じであります。

譬えば仏教でも四宇八宗それぞれにやり方が違っておりますが、結局は佛性を得るということ以外に目標はありません。

儒者の言うことや主張も同様で、目標は徳業を為すということ以外にはないと思います。

結局はその僧の修行次第で佛性をさえ得ることができたならば浄土の世界に行けることはできるはずです。

儒者もその人の修行次第で、立派な徳を身に着けさえすれば、どのような国家のお役にも立てると思います。

ですから、先ずその人が有徳の人かどうかをお選びになって、流儀のことはあまりこだわられなくても宜しいと存じます。

自分の流儀を偏屈に主張して他派を非難排斥するのは、その儒者だけの私心であります。

君主は領民すべての主人であり、どの流派の人でも篤学徳業の賢人をお雇いになって、領民の心を導かれ、一国の美俗をお作りになることが、公人としての責任であります。

但し、先にも申し上げました通り、性格の偏った人を人を師匠にされてはならないと申し上げましたのは、前に述べた菊を好きな人が菊をつくるようにしてはならないということであります。

君主の花畑には、牡丹・菊薬・桔梗と紅白黄紫の花が交り咲いて、いつでも生け花ご入用の時はお望み次第に赤でも黄でも、香りもよく花の形もよいものを何十本でも花瓶におとりになることができますが、花の姿が気にくわないと枝も蕾もむしり捨て、我好みの黄色一色にされることは、萬民の上に位される君主の在り方としてはよろしくないと存じます。

人の行いは善と悪の二通りしかありません。

善人を多くし、悪人を減らすということ以外に、教化の道はないと思います。

こんなことを聞いたことがあります。

ある浄土宗の老師の信徒の中に、内々法華宗を信じているものがあることを知り、非常に面白くなく思われて、その人を教え誡められ、世の諺にも法華宗では仏になれないと言われているのに法華宗を信じていては極楽浄土へは行けないよと申されたところ、その人が申すには、老師はそのように仰いますが、先日私の親しい浄土宗の人が病死して三日後に蘇生いたしました。そしてあの世で地蔵様のご案内で地獄極楽ことごとく見て参りました。

また、日頃懇(ねんご)ろにしている法華宗徒の中にも、だいぶん亡くなったものが出ておりますが、皆仏になったものと思います。

そうであれば、法華宗では仏になれないとは言えないのではないでしょうか、と。

老師はそれを聞いて大変気色を悪くされ、とんでもないことを言う。

そうであれば阿弥陀如来も尊くないことになる、例えどんな善業を積んだ人であっても、浄土宗祖源空上人(げんくうしょうにん)の起誓文(きしょうもん)に背いて他宗を信じるようなものをむざむざ極楽往生はさせられないと膝元へ引き寄せられ、阿弥陀如来様に申し訳ないことだ、これでは自分などは最早往生極楽など望めない、と嘆かれたそうでありますが、大体この頃の儒者も皆この浄土宗の老師と同程度の見識と思われます。

昔からの賢人が導かれましたのは、すべて聖人の教えを尊崇するというものであります。

たとえ孔子孟子の教えと違っても、自分の流派をつくった人の言葉には背かないと申すことは合点できません。

申してみれば、今の世に生まれた人は、すべて昔に生まれた人の弟子であります。

私のように魯鈍な性質の者でも、幸いに幼い時から書物を読み習い、中国の秦漢以来の書物や程氏(ていし)とか朱子の残した言葉を知り、伊藤仁斎や荻生徂徠の見識も借りて、そのおかげで私なりの愚かな意見も申すことができるようになったのであります。

ですから、これははっきりとは言えませんが、広大無辺の天地の御恩徳と思っております。

しかしながら、生みの親が教えられたことでも、大きくなって考えると一概にそうでないこともたまたまあるものです。

幼少の頃と一人前になってからでの違いも考えす、ただ親が申したことだからということでそのまま行い、大きな間違いをしたならば、親は草葉の陰で決して喜ばないと思います。

先ほどの浄土宗の教えだけを主張した僧は、本当に道を悟った師ではなかったと思います。

自分の学派の教えだけを主張して肝心の徳業まで話が及ばない儒者も信じがたい人であります。

主君が学問をどう教うべきかをお考えになった主旨は、能く道理を教えて領民を善い方向に向かわせることにあると思います。

ですから、 程朱(ていしゅ)の学を学ぶ人は、徳の備わった程朱の学の先生につかせ、仁斎や徂徠の学を好きな人は、人格者の仁斎徂徠学者に教えさせ、とにかく人を善く育てて善心になるようにすることであります。

何流の学問でも、我執が強く、人を教化できないようでは、無益の学問とお考え下さい。

誰でも昨日直接に孔子孟子から教えられたという弟子ではありませんので、昔の賢人や先輩でも是非得失がないとは言い切れないと思います。

先にも申しましたように、師たるべき人は、本来の志や行いが正しく、偏見や固執することがなく、学問も多くの本を幅広く読み、古今の治乱興亡や人情事変にもよく通じ、唯よく導くことができ、鼻水を垂らしている子供でもどうか善行善心の立派な人になるようにと、実情のよくわかった人を御家中の中から選ばれるのがよろしいと思います。

その人の善言善行を見習い、聞き習いして、逐次進んでまいりましたならば、その中から一廉(ひとかど)の立派な人物も出てくるものと思います。

そのうえで、先賢の学者の教導を受けられますよう、お計り頂いてはいかがかと存じます。

自分一人で何でも判っていると考え、驕慢で慎みのない人は、號にも師匠の地位につかせられないことが大切と存じます。

上杉鷹山を導いた細井平洲の人間学~嚶鳴館遺草 私解』(渡邉五郎三郎著)

朗読バージョン

指導者を選ぶときの心得

上杉鷹山も師事した江戸時代の儒学者 細井平洲。 『嚶鳴館遺草』から、指導者の選び方についての教えをご紹介します。 -- 師たるべき人は、志行い正しく偏見固執なく博識、治乱興亡人情事変に詳しく、善く導くことのできる人であるべき。:細井平洲 -- ★この朗読の文章は、下記ページにてご覧いただけます。
家臣のなかに役立つ人材を多く見出し、外部から立派な師を迎えるべし:細井平洲
前回、江戸の儒学者 細井平洲の『嚶鳴館遺草』の中から、 主君に諫言する人物を育てる方法『嚶鳴館遺草』(細井平洲) ...
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