学問の道は立派な先生ににつき、良い友をえらぶことにある、という細井平洲の教えがあります。
それに続き、
細井平洲は、
上の立場にあるものから先施を行うことから始めると、上下一致してことを為すことができるという教えを説いています。
上下一致して和楽しなければ何事も上手くいかない。「先施」の道を大切に。:細井平洲
人を教え導くということは、相手の年、身分、性質などを考慮して、それぞれにふさわしく受け入れやすいようにすることが大切で、経書の主旨を違えてはなりませんが、教え方は色々あるものであります。
もともとお聞きになる側の方も、まだ心に理解判断する力もなく、学問というものはこのようにいつまでも判らぬことを聞いていることだと思われるようであれば、本当にいつまでも面白くもおかしくもないことは、当然至極の事であります。
しかしこのような形は、大臣重職の人が良く考えられたご自分がその講堂の席に出て師との問答や応対のやり方を示して見せなくては、地位の低いものにできるものではありません。
私のような愚鈍なものも、時に諸侯に招かれ、不調法ながら師匠のまねごとを致しますが、右のようなやり方でどこでも親しみ深く話しますので、いつの間にか学問にも深く立ち入られて、あとでは私など及びもつかぬほどに上達される方もあり、したがって、一藩の政事(まつりごと)も行き届き領民も心から喜びご信頼申し上げている方々もあるほどです。
私など外に説明のしようもありませんので、論より証拠という諺の通り、今まで実践しわかっているところを申し上げたままであります。
さて、右の親しむということの中には、詩作に興じたり、文章を作る楽しみもありますが、之も学問の一端でありますので、その中からいつの間にか道理は面白いものと思われるようになるのも自然の事であります。
ですから、お申し越しの件につきましては、先ずこのようなところに留意されてはいかがでしょうか。
悪い方に参りますと、学問学問という言葉だけで、内容のない人は少なくないように思われます。
これは取り扱い、導き方のまずさによるものであります。
しかし、これは私個人の未熟な料簡かもしれませんので、更に博識高徳の方々にご相談いただきたく存じます。
その後、政を進めるうえでいろいろ考えたところ、上下一致して和楽(わらく)しなければ、ない御共うまくいかないので、そのようになるよう心を尽くしたが思うようにいかない、そこで私の意見を聴きたいとの仰せ、よく承りました。
仰せの通り、上下一体とならないで善政が成就したということは、昔から聞いたことがありません。
しかし究極のところは、君主と補佐する重役の徳の如何によることは勿論であります。
それについて未熟ながら私の考えをすべて申し上げます。
人と人との交わりは、貴賎老少痴愚(きせんろうしょうちぐ)に関係なく、「先施(せんし)」という道があります。
先施とは、先づ施すということで、相手の出方を待たず、自分の方から仕掛け仕向けることであります。
人から親しまれたく思うならば、先づ自分の方から親しみ、人から敬われたく思うのであれば、先づ自分の方から敬い、すべて自分に都合よいようにと思うのであれば、先づ相手の都合よいようにすることであります。
貴方は重役のお身分で、家柄も俸禄も藩内一二の立場におられます。
そうであれば、貴賎という時、貴方は貴の立場で、貴方より下はすべて賤(せん)の立場であります。
貴の立場の者が賤の立場の者に遜(へりくだ)り、上の方から下の者に遜るということがこの上ない徳であると言われますが、大自然の道も天気が悪くなり雨が降らなくては、地気(ちき)というべき地の働きも戻って参りません。
天は天、地は地ということで、陰陽の気が交わらなくては、万物の生育はないのであります。
つまり、上下の交わりが上手くいくのは、先づ上が初めでなければなりません。
たとえて申しますと、地位の低いものが目上の人の前に出たとき、地位の高い方の人から、先づこちらへという言葉がなければ低い方からそちらへ参りますとは言えないものです。
このようなことを考えてみてください。
親しむことも上から下へ親しむのが初めてで、仲良く和するので上から和するのが初めであります。
すべて人情としては、地位の低い人は上の人に可愛がられ、幼いものは年長の者に可愛がられ愚かな者は智慮のある人に褒められ悦ばれたく思うのが自然であります。
それなのに、上の者が下の者から親しくしてくるのを待ち、年上の者が下の者がなついてくるのを待って、上の者が先づ先に施すことなく、年長者が先に施すことなければ、下の者から親しむ手段はなく、年少者が懐(なつ)く手段もありません。
このような時は、上下老幼お互いに相手の出方を見ているだけで、寄り付くことはできません。
積極的に寄ろうとする心がないのは疎遠の初めであり、疎遠なのは物事がうまくいかない元であります。
世の中で、人を嫌う人は人に嫌われる人であります。
ですから、昔から賢い大臣、善い補佐役と言われる人々は、誰でも先づ自分から先に施す徳が厚く、高い地位の人が下の人に遜(へりくだ)り、人の心をうまくつかんだ人であります。
政を扱う大臣を棟梁の臣というのは、上には屋根を頂き、下には柱や戸障子をふまえて、上と下との真ん中に立つ役人を言うのであります。
其れなのに、このごろは家老執権という役職におりますと、主君と同じ立場と思うような気持になり、上への心遣いばかりがあって、下への心遣い思いやりがなくなり、昨日までは一緒に努力しようと話し合っていた方向の仕事も、今日からはバラバラに離れてしまいます。
これでは、物事を丹念に全体的にみたり聞いたりせず、自分の職分だけを考えることが職を守ることだと考えていますので、下々の人が自分と仲良くする道はふさがってしまうのであります。
貴方は学問を治められていて、右の道理はよくわかっておられるのですから、上下一体の和を念じられて、先づ下の諸役人へ気易く物事の相談をしていただきたく存じます。
相談をするときには、地位の上下に関係なく、人々の考えを出し合って、是非善悪を十分に議論することであります。
近頃のやり方は、下より申し出ることは皆五寸や一尺の書付に書き出させて家老執権の元へ差し出し、低身平伏してご機嫌伺いと気候の挨拶の外は一言も言わず、その是非は上からの指図 下知(げち)の通りかしこまり承知して退くことが役目上役を敬うことだと心得ていますが、実際心から承服しているかどうかはその上役でも判らないのであります。
諺にも、「一寸の虫にも五分の魂」とありますが、人々の腹の中に是と非がありますことは、智者と愚者とでちがうものではありません。
そのために、目の前では従っても陰で文句を言うような悪い風習が次第に増え、陰では各人それぞれの鬱憤(うっぷん)を出し合い、上に対する時と違って、内心では笑っているというような悪い根性になり、遂には君主の政をないがしろにするようなことにもなります。
私が前にある藩に招かれまして暫く逗留いたし、学校や教育について世話をしたことがありますが、その折、家老重職一同の申し合わせでひと月に三回 政治に携わる役職の者が一同に集まり、受講いたし、その後は四方山の事、政に役立つような話をいたし合いました。
その時は、重役がそれぞれ酒肴などをもって参り、酒を酌み交わしましたが、その時は政治上の事でない密にすべきものもありましたので、給仕の者は一人も入れず、お互いに酌をしあいました。
時々は上席の重役の人もかわるがわる立って酌をするような有様で、末席の者にも遠慮なく飲み食いさせました。
このように一つ屋根の下で隔意(かくい)なくそれぞれの意見を申し述べ、是非邪正の議論を皆で大っぴらにいたしました。
これによって一同の心が一致し、当時の案件も万事うまく処置され、政(まつりごと)も上手くいって、君主も大変お喜びになりました。
今思い出しても、色々珍しい事や楽しいこともみたり聞いたりすることが出来まして、善い思い出になりました。
兎に角良いと思ったことは実際にやりますと、良い結果が出て参ります。
どんなに良い事でも、形式にこだわって実施しなければ何も生まれて参りません。
貴方などは国の柱石として常々人が尊敬しているお身分でありますから、本当に実践のお志さえお立てになれば、上下一致して忠節に励む気風も起こって参りましょう。
いづれにしても、一本に纏(まとま)り相和することは、政治が行われます上で最も大切なことであります。
是非君国のためお考えいただきたく存じます。
人の性は元々善でありますので、善に向かぬ人はありません。
初めに申しました通り、人を嫌うのが人に嫌われる元、人に親しくしないのが、人が親しくしてこない元であります。
何よりも先づ「先施」をお心がけになってください。
ご懇篤なご相談に預かりまして、思いつくままに遠慮なく述べさせていただきました。
「細井平洲『嚶鳴館遺草』つらつらふみ 臣の巻」渡邉五郎三郎訳