古典語は教養の最も実用的なものであるといえよう:安岡正篤


秋の裏磐梯

最近社会が幼稚化しているのは、私達の言葉が薄くなっていることにも起因しているのではないかと漠然と考えていたところ、安岡正篤先生のこんな言葉に出会いましたので、ご紹介します。

明治人は、若い時分にそれ相応に国典や漢語・仏書の類を読まされておった。

すくなくとも文字というものを叩きこまれた。

これは人間を作るのに、実に良いことであった。

西洋でも同じことである。

ヨーロッパの高等学校では、ラテン語やギリシャ語を文法からやかましく教え込む。

この基礎があると、英語でも仏語でも独語でもなんでも、ものにしやすいのだとよく言われるが、そんな効能は枝葉末節の事で、言葉は靈(れい、たま、たましい)である。

希臘(きろう/ギリシア)・羅馬(ローマ)の文化を受けて育ったヨーロッパ人が、ギリシア・ラテン語をこなすということは、文化の根源的な声明を吹き込まれることである。

後代文化は、偉大な先人が創造し、或は継承した古代文化に、精神的根柢を下した、有機的・歴史的成長発展でなければ真物ではない。

それは浅薄な大脳皮質しか持ち合わさぬ批評家が「もう古い、用のない、死んだ文化語」と考える言語文字で原型が作られているのである。

地中に埋まっている古臭い根など、新しい花や実に何の関係もないと思うのは馬鹿で、その目に見えぬ古い根をよく培養することが新しい花を咲かせ実をならせる一番有効な捷径(しょうけい/近道)なのである。

その意味からいえば古典語は教養の最も実用的なものと言うことができよう。

ホーマーやプラトーやセネカやダンテを、記紀や語孟や法華・維摩(ゆいま/大乗仏教典のひとつ)を原典で読んだ人々は、永遠の高貴な心霊に触れ、無窮の生命の泉を掬む(くむ)悦びに浸って心裕かになるものであり、そして不思議に相応の示唆や覚りを得て、人生の難問の思いがけない解決になることをよく知っている。

学校教育でも古代語の根本的教養が最も実用的なものであるということをヨーロッパの学者はもっともよく知っているようである。

クレマンソーが、政治の不快に堪えらなくなると、自分はいつもギリシャの古典に帰るのだと言った話や、フランスの代表的な実業家が、帰宅して寛(くつろ)いだ夜はたいてい古典を読むというアンケートは、現代人に良い反省の資料であるが、今度の戦争の直前、ソ連に新しい戦略に関する秘密の研究があることを探知して、竊(ひそ)かに入手した日本軍の当事者が、多大の脅威を持って點検したら、なんのことだ、それはロシア語の孫子研究であったということなど、むしろ大いに考えさせられるものがある。

『東洋的学風』(安岡正篤著)p308-309

※掬む–くむ、ex 水を掬む / 掬う–すくう、ex 水を掬う

東洋的学風

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